。おれは、うれしいぞ。おれは、まだ死にはしない」
「うん、死ぬものか」
 と、竹見は口ではいったものの、この重症のハルクが再起できるとは、ひいき目にもおもわれなかった。
「おい、た、竹。おれのズボンのポケットから、水兵《ジャック》ナイフを出して……刃《は》を起せ!」
「水兵ナイフ! 危いじゃないか」
「いや、は、はやくしろ。そして、おれの手ににぎらせてくれ」


   つのる蛇毒《じゃどく》


 蛇毒にやられて、かびくさい倉庫の床に、気息奄々《きそくえんえん》のハルクほど、みじめな者はなかった。常日ごろ、“巨人”という名をあたえられて畏敬《いけい》されていた彼だけに、今の有様は、なみだなしでは見られなかった。
「おい、竹。どうした、水兵《ジャック》ナイフは……」
 と、巨人ハルクは、はあはあ喘《あえ》ぎながら、水夫竹見に、さいそくをした。
「うん、水兵ナイフは、あったが、これをお前がにぎって、どうするつもりかね」
 竹見は、ハルクにいわれたとおり、ズボンのポケットから水兵ナイフを出して、刃《は》を起してやったものの、このとぎすまされた水兵ナイフを、重態のハルクににぎらせていいものかどうかについて、竹見は迷った。
「はやく、は、はやく、こっちへ呉れ。な、なにをぐずぐずしている……」
「はやく渡せといっても、お前、これをにぎってどうするつもりか」
 ハルクは、くるしさのあまり、このナイフでわれとわが咽喉《のど》をかききって、自殺するのではなかろうか、そう思った竹見は、友にナイフを手わたすことを、ためらった。
「ええい、こっちへよこせ!」
 とつぜんハルクは、半身《はんしん》をおこすと、竹見の手から、ナイフをうばった。が、ナイフをうばったというだけのことだ。そのまま、また土間《どま》にかおを伏せて、うんうんと、高くうなりだした。
「ほら、そんな無理をするから、余計にくるしくなるじゃないか。おい、ハルク、おれが、これから出かけて、医者をさがして、呼んできてやる」
「い、医者なんか、だめだ。お、おれは、自分で、やるんだ」
 と、いったかと思うと、ハルクは、とつぜん、むくむくと起きあがった。
「おい、どうするんだ」
 ハルクは、無言で、いきなり、べりべりと音をさせて、右脚の入っているズボンを、ひきさいた。
「竹、おれのバンドをといて、右脚のつけ根を、お、思い切り、ぎゅっと縛ってくれ。早く、早くたのむ」
 ハルクは、歯をくいしばりつつ、自分の右の太ももを指した。
「あ、そうか、もっと上を、しばるんだな」
 竹は、ようやく合点がいって、ハルクがいったとおり、バンドをといて、太ももを、力のかぎり、ぎゅっとしめた。蛇毒は、ハルクのふくらはぎのむすび目をこえて、上へのぼってきたらしい。
「もっと強く、しばれ」
「でも、これ以上やると、皮がやぶけるぞ」
「皮ぐらい、やぶけてもいいんだ。なんだ、お前の力は、それっばかりか」
「なにを。うーん」
 竹見は、全身の力を腕にあつめて、ハルクの太ももをしばった。
「うーむ」
 さすがのハルクも、竹見が力一杯にしめつけたので、気が遠くなるような痛みに、うなった。
「これでいいか」
「うん、よし」
 と、ハルクはうなずいて、
「竹、お前、向うへいっておれ」
「なんだと、――」
「お前がいると邪魔だ。向うへいっておれ」
「なにをするつもりだ」
「ええい、うるさい野郎だ。見ていてこしをぬかすな。これが、おれのさいごの力一杯なんだ!」
「えっ」
 ハルクの手に、ぴかりとナイフの刃がひかった。と、思うと、懸《か》け声《ごえ》もろとも、ハルクはナイフを自分の太ももに、ぐさりとつき刺した。
「おい、ハルク」
「だまっておれ! くそッ」
 ハルクの硬いひじが、いきなり竹見の顎《あご》を、下からつきあげた。
 竹見は、うーんと一声|呻《うな》って、ふかくにも、その場にどうと倒れて、気をうしなってしまった。
 ほど経《へ》て、竹見が、再び意識をとりもどして、その場にむっくり起きあがったとき、彼は、ハルクが、ついに自ら、片脚を見事に切断しているのを発見して、愕《おどろ》きもしたし、また感歎もした。
 ハルクは、血の海の中に、うつ伏せとなり、水兵ナイフをそこへ放りだしたまま、虫の息となっていた。おそるべき大力だった。おどろくべき気力であった。何をどうしたのか詳《つまびら》かではないが、蛇毒をうけて瀕死《ひんし》のハルクは、ついに自らの手で、自分の太ももを切断することに成功したのだ。
 竹見ほどの豪胆者《ごうたんもの》も、この場の光景を見たときに、なにかしら、じーんと頭のしんにひびいた。


   死力《しりょく》


 ハルクの呼吸は、発動機船のように、はやい。
「おい、ハルク。しっかりしろ」
 竹見が、いくど声をかけても、ハルクはもう、一語も返事をしなかった。
 ハルクを抱きおこして、その口にブランデーを注ぎこんでやろうとしたが、ハルクは歯をくいしばって、口をひらかなかった。彼の顔面は、紙のように蒼白《そうはく》になっていた。
「おい、ハルク。死ぬな。死んじゃ、いけないぞ。おれは、医者をさがして、ここへ引張ってくる。それまでは……」
 水夫竹見は、そこで声が出なくなった。そでで両眼をぎゅっとこすりあげ、
「それまでは、死んじゃならないぞ。気をしっかり持っているんだ!」
 竹見は、この世の中に、ハルクが、一等彼の愛する人間であるように思われてきた。なんとかして、ハルクを助けてやらなければならない。
 彼は、立ち上った。
(このまま、ハルクをここに残しておいて、大丈夫かしらん?)
 想《おも》いは、ハルクの一つのすういき、一つのはくいきにかかって、心配は限りない。だが、このままぐずぐずしていれば、結局ハルクは、死との距離をだんだんつめていくばかりであろう。なんにしても、早く医者をここへ引張ってきて、解毒《げどく》の注射をうってもらうとかして、正しい手当をうけさせねば駄目である。
 竹見は、ついに最後の決心をして、
「ハルク、頑張っているんだぞ」
 と、彼の耳許に叫ぶや、破ったまどをよじのぼり、外に出た。が、彼は、うしろがみをひかれる想いであった。
(なぜ、おれは、こうして、急に気がよわくなったんであろう?)
 竹見は、自分の心をしかりつけた。しかし彼は、ハルクのそばをはなれていくのが、いやでいやで仕方がなかった。
 それも、無理からぬことであった。後に、そのときのことが、思いあわされたように、竹見にとっては、これが良き仲間ハルクとの永遠のお別れであったのだ。いくたびか、悪船長ノルマンの暴力から、竹見を救い出してくれた巨人ハルク! 身体の大きいに似合わず、母親のように、親切にしてくれたハルク! そのハルクとは、このとき限り、再び手をにぎる機会を逸してしまった竹見であった。
 こっちは、船長ノルマンであった。
 ノルマンは、さんざ、巨人ハルクを、利用するだけ利用したうえ、ハルクが毒蛇のためにかまれて、もう再起する力がないと見るや、れいこくにも、ハルクを倉庫の中にすててしまった。
 彼は、倉庫の鍵をもっていたから安心しきっていた。まさか、あの倉庫の通風窓《つうふうまど》が破られることなどは、勘定に入れておかなかった。だから、鍵を自分のポケットにしっかりにぎっているかぎり、誰もハルクの傍に行くことはできないものと信じていた。
(いずれ、あとでもう一度いってみよう。ハルクは、たぶん息をひきとっているだろうから、そうしたら、後に面倒のおこらないために、倉庫の中に穴をほって、ハルクの死体をうずめてしまおう)
 船長ノルマンは、自分たちに都合のよいことばかりかんがえ、そして万事《ばんじ》手《て》ぬかりのないように、先の段取《だんどり》を、心のうちに決めたのであった。そこで彼は、モロ殺しのことも、ハルクを捨てたことも、知らん顔をして、悠々《ゆうゆう》と火薬船ノーマ号へもどってきたのであった。
 船では、怪人ポーニンが、彼のかえりを、今か今かと待ちかねていた。
「おお、ノルマン。遅かったじゃないか」
 船長ノルマンが、部屋に姿をあらわすと、ポーニンは、手にしていたハイボールの盃《さかずき》を下において、つかつかと入口へ、ノルマンを迎えに出た。
「どうも、骨をおりましたよ」
 そういって、ノルマンは、ポーニンが、もっとなにか云い出しそうなのを手でせいして、入口のとびらを、ぴったりとじた。
「おい、結果を早く聞こう。あれは、どうした。そのすじの密偵《いぬ》を片づけることは?」
「あははは、もう安心してもらいましょう。あいつは二度と、この船へはやって来ませんぜ。万事すじがきどおり、うまくいきました。蛇毒《じゃどく》で昏倒《こんとう》するところを引かかえて、あの雑草園の下水管の中へ叩きこんできました。死骸は、やがて海へ流れていくことでしょうが、それは永い月日が経ってのちのことで、そのときは、顔もなにもかわっているし、この船も、このサイゴン港にはいないというわけです」
「そうか。それはよかった。ハルクには、特別賞をやらにゃなるまい」
「そのハルクも、序《ついで》に片づけておきましたよ。万事《ばんじ》片づいてしまいました。あとは、一意、われわれの計画の実行にとりかかるだけです」


   怪しき男


 そういっているとき、部屋の扉を、とんとんとたたいた者があった。
 ポーニンとノルマンは、顔を見合わせた。
「誰だ」
 と、ノルマンが声をかけると、
「はい、私で……」
 と、はいって来たのは、事務長だった。
「なに用だ、事務長」
「なんだか、へんなやつが、船へやってきましたよ。ロロー船長がこっちに来ていないでしょうか、と、たずねているのです」
「なに、ロロー船長?」
 ロロー船長というのは、警部モロのことだった。彼のことなら、もうとくのむかしに、この世から息を引取っているのだった。船長ノルマンは、ポーニンと顔を見合わせて、意味深長《しんちょう》な目くばせを交わした。
「船長ロローは、上陸したが、なにか用事があって、まだ帰ってこない――と、そういえ」
「はい」
「それから、なにか用なら、聞いといてやるからと、そういってみろ」
「はい、かしこまりました」
 事務長は、出ていった。
 船長ノルマンは、ポーニンの方に、身体をすりよせ、
「ごらんなさい。さっそく警備庁の連絡係が、ロローのところへのりこんできたんですよ」
「ふん、あの一件を嗅ぎつけたんだろうか。それとも、平靖号の乗組員が、こっちを裏切って、密告したんだろうか」
「さあ、どっちですかね。ねえ、ポーニンさん、ともかくも、そのすじの奴等に雑草園をしらべられると困りますから、それを胡麻化《ごまか》すため、例の骨折賃《ほねおりちん》の饗宴《きょうえん》を、すぐさま雑草園で始めてはどうでしょう。わいわい酒をのんでさわいでいりゃ、なにがなんだか、わかりませんよ。そのうちに夜が明ける。荷役《にやく》が終る。おひるごろには、このノーマ号も平靖号も、サイゴン港を、おさらばする。ちょうどだん取がうまくはこぶじゃありませんか」と、船長ノルマンは、なかなか悪智恵《わるじえ》をはたらかす。
「ふん、それでよかろう。では、さっそく、雑草園で、大盤ふるまいをはじめよう。お前、みなにそう伝えろ。船にのこっているやつも、できるだけ、上陸させてやるがいい」
「ええ」
「どうする、その大盤ふるまい始めの命令は。お前がもう一度上陸して、伝えることにするかね」
「いや、私はここにいます。そして事務長を上陸させましょう。」
「お前は上陸しない。なぜだ」
「雑草園には、あなたや私がいない方がいいのですよ。いりゃ、またそのすじのやつなどにつかまって、こっちも、したくない返事をしなきゃならない。われわれがいないで、みなに勝手に飲ませて、大いにわいわいさわがせておけば、官憲が調べようたって、手のつけようがありませんよ」
「ふむ、なるほど。それは名案だ。じゃあ、事務長をよんで、お前から上陸命令をつたえろ」
「よろしゅうございます」
 こうして、二人の
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング