意が、もはや無駄だとは知らなかった。
警部モロは、ビールがすきであった。
だから彼は、その夜の饗宴《きょうえん》のことをすっかりたのんでしまった後で、ボーイに、ビールを所望した。
「じゃあ、旦那さん。あっちに、すずしいしずかな席がございますから……」
と、ボーイは、警部モロを、この酒場の名のとおりの雑草園の方へ案内し、そこにところどころに置いてある野外席の卓子へみちびいた。
むしあつい夜だったので、そよ風吹くその卓子は、警部モロを悦《よろこ》ばせた。そして彼は、ここ暫くつづいた敵中の緊張を、一時ほぐすために、ビールの大コップをとりあげたのだった。それは、実にすばらしいビールのあじだった。モロは、生れてはじめて、ビールがこんなうまいものかと、おどろいた。そうであろう、そのビールこそ、彼の末期《まつご》の水であったのだから。
雑草園のものかげに、巨人ハルクは、原地人のふくを着て身をしのばせていたが、船長ノルマンからいいつけられたとおり、モロの卓子に、当のモロの外、誰もいなくなったのを見すまし、例のステッキを持って、のこのこ出ていった。
「もし旦那さん。ステッキをおとどけ申します」
警部モロは、もうすこしあかいかおになっていたが、
「ステッキ? 一体そりゃ何事だ」
と、こわい眼で、ハルクを見た。
「さあ。わしはなんにも知りませんが、今雑草園へ入っていった旦那に、このステッキをわたしてくれと、たのまれましたのです」
「ふーん、それをたのんだのは何者か」
「さあ、わしの知らない人ですが、どうやらそのすじの人らしい……」
「よし、わかった。もう後をいうな。ステッキをこっちへよこせ」
ハルクは、フランス語をすこししゃべる。それをノルマンが利用して、この芝居をやらせているわけだった。
ハルクとしては、めいわくこのうえもないが、まさか相手が、土地の警部であり、そしてハルク自身が今殺人に取り懸っているなどとは知らない。一方、警部モロはモロで、ハルクのことを本部からの連絡密使であると、かんちがいをしてしまった。
黒いステッキのあたまが、モロの方へさしだされた。ハルクは、そのステッキの根元《ねもと》をもって、さしだしたのであるが、それもノルマンからいわれたとおりにした。すると、彼の手は、釦《ボタン》をおさえたことになる。とたんに、ステッキの蓋が、ぱちりとあいた。その瞬間ステッキがにゅっと伸びたように見えた。
「あっ、あッッ!」
それが警部モロの最後のこえだった。ステッキの中にひそんでいた青斑《あおまだら》の毒蛇《どくじゃ》が、蓋が明いたとたんに、警部モロのゆびさきに咬《か》みついたのである。
モロは、面色《めんしょく》土のごとくになり、発条仕掛《バネじかけ》の人形のように、突立ちあがり、椅子をたおした。彼の左手が、ぶるぶる震えるなわのようなものを、右手からひきちぎった。そしてハルクめがけて、ぱっと投げつけた。それは青斑の毒蛇だった。
「あっ!」
ハルクは、ふって湧いた意外な事件にすこしぼんやりしていたところだった。とびついて来るものが蛇だと知ったとき、ハルクは、拳《こぶし》をかためて、ぴしりと蛇を払いのけた。蛇は足元におちて、がさがさと音をたてた。
「こいつ奴《め》!」
ハルクは、それがまさかおそるべき毒蛇だとまでは気づかず、こんどは、足をあげて、うむと、蛇をふみつけた。
「おう、うまくいった。ハルク、その先生をこっちへ抱いてこい」
突然ハルクに呼びかけたのは、船長ノルマンだった。
「あっ、船長」
「余計な口をきくな。はやくやれ、はやく。その先生をかかえて、こっちへ来い」
警部モロは、酒をのんでいたところへ、毒蛇に咬まれたので、たちまち毒が全身にまわって一命をおとしてしまったのである。
ノルマンは、ハルクに手つだわせ、彼が怪訝《けげん》なかおをしているのをしかりつけながら、警部モロの死骸を、下水管の中へ放りこんで、しまつをしてしまった。
「まず、これでいい」
「船長、ひどいことをするじゃないか。わしには何にもいわないで……」
「れいをする。だから喋《しゃべ》るな」
「毒蛇をわしにあずけておいて、用心しろ、咬まれるとお前の生命があやういぞともいってくれなかったのは、いくらなんでも……」
といっているうちに、どうしたわけか、ハルクは、急にあわてだした。
蛇毒《じゃどく》は廻る
「船長、ま、まってくだせえ」
ハルクは、くるしそうにあえぎながら、ふりしぼるようなこえでいった。
「なんだ、ハルク」
と、船長ノルマンは、うしろをふりかえったが、ハルクは、やけつくようないきをはっはっと、はいている。
「おや、お前どうした、ハルク」
「あ、いけねえ……」
「なに、いけない。なにが、いけないというのか」
船長ノル
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