イゴンに飛ぶ。
怪人ポーニンは、フランス氏と仮称して、モンパリにおさまっていた。セメント会社の社員に化けている、警部モロは、ポーニンの室の前に現われ、とびらをたたいた。ポーニンがモロを呼びつけたのであった。用件は、多分例の安物のセメントの買いつけのことであろうとおもわれた。
「やあ、フランスさん。さっきはお電話を、ありがとうございました。急なお呼びは、何の御用ですか」
と、警部モロは、商人らしい口のきき方をした。
すると、ポーニンは、いやににこにこ顔で、
「おいそがしいところをよびつけて、すみませんなあ。じつはおり入って、あなたに相談があるんです」
「はあ、セメントの値段を、もっとまけろとおっしゃるのですか」
「いや、その話は、べつです。後でしましょう」
「ははあ、セメントのはなしでないというと、はて、どんなことでしょうか」
警部モロは、ポーニンが何をいい出すかと、非常に興味をおぼえた。
「いや、外でもないが、あなたに大金儲けをさせたいんです」
「大金儲け? ほう、この私にですか」
「そうですとも、それには、あなたに、今つとめているセメント会社をやめてもらって、その代り、私の所有船の船長になってもらいたいのです」
「えっ、セメント会社の社員をやめて、船長になれというんですか」
「私のもうけの二割を、あなたに提供します。数十万フランにはなるでしょう」
「一体その船は、何という船ですか」
「私が買う以前は、平靖号という船名を持っていた中国の貨物船なんです」
勇士の途《みち》
平靖号のうえでは、水夫竹見をノーマ号におくりかえして、船長ノルマンの申入れを承諾することに決していながら、なおも議論は、沸騰《ふっとう》した。
「ノーマ号に屈服するなんて、なにがなんでも、あまり情けないことです。船長、わが平靖号が日本を出発するときの、あの天をつくような意気は、どこへおとしてしまったんですか」
「かりそめにも、ノールウェーの一汽船のため、あごでつかわれるとは、日本男児のはじです。あとのことはあとのこととして、サイゴンへ入らないうちにノーマ号の中へ斬りこんでは、どうでしょう」
「そうだ。それがいい。平靖号をノーマ号のそばへ持っていって、いきなりぶっつけるのもいいとおもう。竹見のはなしによると、むこうの船は、火薬船だということだから、こっちからぶっつけたとたんに、火薬が爆発して、船長ノルマンはじめ船もろともに、空中へふきあげられてしまうだろう。ねえ、船長。それをやってみようじゃないですか」
なにしろ血の気が多くて、祖国日本をとびだした連中のことだから、平靖号が、ここでノールウェー汽船の雇船《やといせん》になっておわるというのでは、躍る血潮の持っていきどころがない。だから一つの議論が、さらに二つの議論を生むという調子で、船長室の中は、われるようなさわぎとなった。
虎船長は、若者たちの、熱血あふるる言葉を、じっと目をつぶって、聞いていた。事務長その他、高級船員は、むしろ、若者の留《と》めやくにまわったのであるけれど、自分たちとても、もともと胸中にたぎる武侠精神《ぶきょうせいしん》の所有者だったから、あたまから、若者たちをしかりつけるわけにはいかない。もうこの上は、虎船長の裁断《さいだん》をまつよりほかに、手段はなかった。このとき船長は、やっと両眼をぱっと開き、一座をずっと見まわすと、
「おう、聞け。さいぜんから、お前たちのしゃべっていることは、わしのこの胸の中に、ちんちん煮えたっているものと、全く同じことじゃ」
そういって、虎船長は大きな拳固《げんこ》をかため、自分の幅広いむねを、どんとたたいた。
「じゃあ、船長……」
「まあ、聞け」と虎船長は、制して、
「だが、われわれは匹夫《ひっぷ》の勇をいましめなければならない」
「えっ、いまさら、匹夫の勇などとは……」
若者連中は、匹夫の勇といわれて、おさまらない。
「まあ、しずかにしろ。――これが、わが平靖号の壮途《そうと》の最後に近い時ならば、それは、だれかがいったように、こっちの船体を、ノーマ号の船体にぶっつけ、ともに天空へふきあげられてけむりになってしまうのも、わるくない。だが、かんがえてもみろ。平靖号は、まだやっと祖国の領海をはなれたばかりのところじゃないか。壮途にのぼりながら、まだ一回も、壮途らしいことをやったことがないのだ。おい、そうでないというやつは、いないだろう」
それは、そのとおりにちがいない。平靖号が航海にとびこんでからこっち、多少、風浪《ふうろう》ともみ合ったり、横合《よこあい》から入って来た危難を切りぬけるのに、ほねをおったぐらいのことで、こっちから仕かける壮途らしいことは、ただの一回もやったことがないのだ。この虎船長のことばには、だれも反対をとなえる
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