ないでしょう。結局、仏領インドシナのハノイか、それとも、ずっと南に下りて、サイゴンへ入るか、そのどっちかでしょうと思います。
「ふむ、どっちにしても、相当の長い航程だ。ノーマ号を見うしなっちゃ、おしまいだから、ひとつ石炭をどんどんたいて、やつにくっついて、はなれないように船をやれ」
虎船長は、そこではじめて、にやりと笑顔を見せた。
謎の人物
そのころ、南シナ海を中心とする界隈《かいわい》の各国官辺すじで、ポーニンと名のる白人のことが、しきりに問題になっていた。
ポーニン氏は、トマトのようにかおの赤い、そして桃のような白い毛が密生した、小柄の白人であった。彼は、白系ロシア人であると自ら称していたが、だれも一ぺんでそのようなことを信じる者はなかった。
このポーニン氏は、身体の小柄ににあわず、ひどく心臓のつよい人物で、相当の金をもっているようにいっていたが、ときには宿屋の払いにもさしつかえることなどもあって、まことに複雑怪奇な人物というべき人物だった。
彼は、なにか仕事でもさがしているらしく、しきりに南シナ海を中心に、あっちへいったり、こっちへ来たりしていた。
さて、この物語は、彼ポーニンが、インドシナの南方の海岸サイゴン港にやってきてからのちに始まる。
サイゴンといえば、ちかごろは、わが欧州航路の汽船でかならずよっていくという重要な貿易港であって、米、チーク材、棉花などを輸出し、パリー風の賑《にぎや》かな町で、フランスの東洋艦隊の根拠地でもある。
フランスの守備軍司令部に属する警備庁の、奥まった一室では、長官アンドレ大佐以下の首脳部があつまって、しきりに会議の最中である。
「おい。たしかに、ポーニンにちがいないんだね。容貌《ようぼう》や、身長なども、よくしらべてみたかね」
と、大兵肥満のアンドレ大佐が、係の警部モロにいった。
「長官閣下、そのへんは、念入りによくしらべあげてあります。容貌や身長だけでなく、指紋までもしらべました。全く、例のポーニンにちがいありません」
「じゃあ、ただ一つちがっているのは、名前だけなんだね」
「そうです。フランス氏と名乗っていますが、もちろんこれは変名です。フランス氏などという名前は、フランスにだって、そう沢山ある名前じゃありませんからね」
「よし、わかった。では、謎の人物ポーニンに相違ないものとして、話をすすめよう」
と、長官アンドレ大佐は、大きく肯《うなず》いて、
「そこでじゃ。ポーニンが、しきりにセメントを買いあつめているというが、それは本当か」
「本当ですとも。まだ口約束だけのことですが、私の部下のしらべてきたところによると、こんなに有ります。このとおり、全部あつめるとたいへんな量です」
警部モロは、鞄の中から、いろいろな形の紙を重ねあわせた書類束をとりだした。
「ええと、これが五百袋。こっちの商会が、千二百袋。またこっちは、三百袋。……」
「合計して、どのくらいになるのか」
「ざっと勘定しまして、九百トンです」
「ふーン、九百トンのセメントか。相当の分量だ。そんなセメントを買いこんで、どうする気かな」
「当人は、今にセメントが値上《ねあが》りするから、買《か》いしめておくのだ、といっているそうです」
「すると、値上がりのところで、売ってもうけるつもりなんだな。すると、単に、目さきの敏《さと》い商人でしかないではないか」
長官アンドレ大佐は、そういって、卓子《テーブル》にあつまっている首脳部の人たちのかおを、ずーと見まわした。
「それは、どうもおかしいですな」
「ポーニンが、金|儲《もう》けだけに、うき身をやつしているとは思われませんねえ。イギリス大使からの内報をよんでも、単に、それだけの人物とはおもえない」
席上では、誰も、ポーニンが、今目さきの敏い商売だけをやっているものとは信じない。
「おい、モロ警部。報告材料は、もうこれで、おしまいなのか。想《おも》いの外、すくないじゃないか」
長官は、モロの方に不満そうなかおをむけた。
「ああ長官閣下。じつは、もう一人、報告をしてくるはずの者がいるのですが、とうとうこの時間に間にあいませんでした。すみませんです」
「もう一人というと、誰のことだ」
「は、それは……」
といっているところへ、卓上の電話が、じりじりとなりだした。
警部モロは、発条《バネ》じかけの人形のように、その受話器にとびついた。
「――なんだ、なんだ。ポーニンが、しきりに船をさがしているって、汽船を買いたいといっているのか。うむ、そいつは、すばらしいニュースだ」
警部モロは、電話で相手とはなしながら、長官アンドレ大佐に、仰々《ぎょうぎょう》しい目配せをした。
セメント問答
怪人物ポーニン氏の行動は、もはやそのままに見のが
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