考えている暇《ひま》は、今の彼にはなかった。瀕死のハルクが、平靖号の甲板へ、血染めの水兵ナイフをなげこんでいったというそのことが、いかに驚異的であるか、それが分れば、まっしぐらにハルクの忠言に従うよりほかなかったのであった。
大椿事《だいちんじ》
信仰のあつき一等運転士坂谷も、これまた、出来事の真相は、よくのみこめないが、霊感にもとづいて、死力をつくして出航を急いだ。
エンジンは、ようやくうごき出した。しかし錨《いかり》は、なかなかひき上げられなかった。これには、一等運転士はよわってしまったが、
「早くやるんだ。じゃあ、錨は、そのままにしておいて、船を出せ。全速力! 全速力でやるんだ」
「全速といっても、錨が……」
「かまうことはない、錨索《びょうさく》はフリーにしておいて、船を走らせるんだ」
船は、うごきだした。だから、錨索は、がらがらと船内からくり出していった。
「全速まで、早くあげろ。錨索を切ってしまえ」
そんな無茶な命令を、聞いたことがない。
「よし、おれがやろう!」
竹見は、大きなハンマーをかついで、甲板へとびだした。彼は、力一杯、走る錨索の上を、がーんと、どやしつけた。しかしそんなことで錨索は切れない。
そのうちに、とうとう錨索は、ぴーんと張ってしまった。船はエンジンをかけているが、錨のために、もはやすこしも前進しなくなったのだ。
「だめです。一等運転士。錨が上らなきゃ、もうどうしてもうごきません」
「もっと石炭を放りこめ、蒸気が、まだ十分あがっていないじゃないか」
「だめです。そんなに早くは…………」
「石炭! 送風機! バルブ全開! 錨を切っちまにゃ……」
ガーン。ガーン。
竹見の傍に、丸本もやってきて、どっちも重いハンマーをふりかぶって、錨索のうえに打ちおろす。錨索は、繰り返えされる衝撃のため、だんだん熱してきた。
ガーン。
がらがらがら、どぼーン。
「ああ、切れた!」
つよく錨索が引張られていたところへ、二人のハンマーが調子よく当ったので、錨索は、とうとう見事に切断して、水中へとびこんでしまった。
「おお、切れた! 全速」
平靖号は、弦《つる》を切って放たれた矢のように、水面を滑りだした。
「おお」
虎隊長は、朱盆《しゅぼん》のようなかおをして、自ら舵器《だき》を握っている。船は飛ぶ。
平靖号が走りだしてから、それは正《しょう》二分ののちのことであった。天地も崩れるような大音響が、それに瞬間先んじて一大火光とともに、平靖号をおそった。
「ああッ!」
「うむ、爆発だ!」
ひゅーと、はげしい風の音とともに、平靖号の真上を、なにものかが走り過ぎた。つづいて、ばらばらがらがらと、さかんに物が横なぐりに、甲板へとんでくる。竹見と丸本の両水夫は、甲板にうつぶせになって生きた心地《ここち》はない。
爆音、また大爆音!
だが、平靖号は、さいわいにして、さしたる損傷もうけなかった。その大爆音は、はるかにサイゴン港内において頻発しているのであった。そのものすごい火の海を、なんといって形容したらいいのであろうか、また天地のくずれ落ちるような大爆音を、なんといって言い現わしたらいいであろうか。爆発はまた新たなる爆発を生んで、いつ果つべしとも分らない。
火災だ! サイゴンの街に火がうつってもえだした。
「ああ、ハルクの復讐だ! 彼奴《きゃつ》は、ノーマ号のつんでいた火薬に火をつけたのだ! それにちがいない!」
水夫竹見は、しばらくして甲板からかおをあげ、炎々たる港内の火をきっと見つめながら、うめくようにいった。
全くおそろしい出来事だった。これで、もう二分間おそければ、平靖号も、そば杖《づえ》をくらって、船体はばらばらに壊れてしまい、虎船長以下、竹見も丸本も、今ごろは屍《しかばね》になっていたかもしれない。
ノーマ号は、あと形なく飛び散った。船長ノルマンも、怪人ポーニンも、ともに一まつの瓦斯《ガス》体となって消え失せた。それとともに、かのごくひの大計画である海底要塞の建設事業も、一たん挫折してしまったのだ。この怪人たちの陰謀のそばつえを食ったサイゴン港こそ、悲惨の極《きわみ》であった。沈没艦船三十九隻、焼失家屋五百八十余戸、死者三千人、負傷者は数しれず、硝子《ガラス》の破片で眼がみえなくなった者が、三百余人と伝えられる。
平靖号の船員も、相当死んだが、元気な虎船長や竹見水夫がいる限り、これにこりず、改めてさらに壮途《そうと》をつづけることであろう。
底本:「海野十三全集 第9巻 怪鳥艇」三一書房
1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷発行
初出:「大日本青年」(「浪立つ極東航路」のタイトルで。)
※「丸本慈三」と「丸本秀三」の混在は、底本通りにしました。
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