意が、もはや無駄だとは知らなかった。
 警部モロは、ビールがすきであった。
 だから彼は、その夜の饗宴《きょうえん》のことをすっかりたのんでしまった後で、ボーイに、ビールを所望した。
「じゃあ、旦那さん。あっちに、すずしいしずかな席がございますから……」
 と、ボーイは、警部モロを、この酒場の名のとおりの雑草園の方へ案内し、そこにところどころに置いてある野外席の卓子へみちびいた。
 むしあつい夜だったので、そよ風吹くその卓子は、警部モロを悦《よろこ》ばせた。そして彼は、ここ暫くつづいた敵中の緊張を、一時ほぐすために、ビールの大コップをとりあげたのだった。それは、実にすばらしいビールのあじだった。モロは、生れてはじめて、ビールがこんなうまいものかと、おどろいた。そうであろう、そのビールこそ、彼の末期《まつご》の水であったのだから。
 雑草園のものかげに、巨人ハルクは、原地人のふくを着て身をしのばせていたが、船長ノルマンからいいつけられたとおり、モロの卓子に、当のモロの外、誰もいなくなったのを見すまし、例のステッキを持って、のこのこ出ていった。
「もし旦那さん。ステッキをおとどけ申します」
 警部モロは、もうすこしあかいかおになっていたが、
「ステッキ? 一体そりゃ何事だ」
 と、こわい眼で、ハルクを見た。
「さあ。わしはなんにも知りませんが、今雑草園へ入っていった旦那に、このステッキをわたしてくれと、たのまれましたのです」
「ふーん、それをたのんだのは何者か」
「さあ、わしの知らない人ですが、どうやらそのすじの人らしい……」
「よし、わかった。もう後をいうな。ステッキをこっちへよこせ」
 ハルクは、フランス語をすこししゃべる。それをノルマンが利用して、この芝居をやらせているわけだった。
 ハルクとしては、めいわくこのうえもないが、まさか相手が、土地の警部であり、そしてハルク自身が今殺人に取り懸っているなどとは知らない。一方、警部モロはモロで、ハルクのことを本部からの連絡密使であると、かんちがいをしてしまった。
 黒いステッキのあたまが、モロの方へさしだされた。ハルクは、そのステッキの根元《ねもと》をもって、さしだしたのであるが、それもノルマンからいわれたとおりにした。すると、彼の手は、釦《ボタン》をおさえたことになる。とたんに、ステッキの蓋が、ぱちりとあいた。その瞬間
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