ろの鼠谷は、顔色は青かったが、涼しいクリクリする大きい眼を持ち、色は淡《うす》いが可愛い小さい唇を持った美少年だった。たまたま机を並び合ったというので、二人の少年はすぐ仲善《なかよ》しになってしまった。この仲善しは、年と共に濃厚になり、軈《やが》て大学を卒業すると二人はこれまでのように毎日会えなくなるだろうというので、女学生もやらないだろうと思われるほどの大騒ぎを起したのだった。
 その揚句《あげく》、八十助と鼠谷とは一つのうまい方法を考えた。そのころ二人とも勤め先が決っていて、八十助は丸の内の保険会社に、鼠谷の方は築地《つきじ》の或る化粧品会社へ通勤することになっていた。それで申し合わせをして午後の五時ごろ、二人が勤め先を退けるが早いか、距離から云ってほぼ等しい銀座裏のジニアという喫茶店で落合い、そこで紅茶を啜《すす》りながら積もる話を交わすことにしたのだった。これは大変名案だった。二人はすっかり朗《ほがら》かになり、卒業のときに大騒ぎをしたのが可笑《おか》しく思われてならなかった。
 ところがこの名案ジニアのランデヴー(?)は名案には違いなかったが、彼等二人の交際に思いがけない破局を齎《もたら》すことになったのも運命の悪戯《いたずら》であろうか。それはこの喫茶店に、露子という梅雨空《つゆぞら》の庭の一隅に咲く紫陽花《あじさい》のように楚々《そそ》たる少女が二人の間に入ってきたからであった。
「鼠谷さんは、そりゃ親切で、温和《おとな》しいからあたし好きだわ」
 と朋輩にいう露子だったが、また或るときは
「甲野の八十助さんは、明るいお坊ちゃんネ。あたしと違って何の苦労もしてないのよ、いいわねエ」
 とも云った。
 昨日の親友は今日の仇敵《てき》となり、二人は互に露子の愛をかちえようと急《あせ》ったが、結局恋の凱歌は八十助の方に揚がった。八十助と露子とが恋の美酒に酔って薔薇色の新家庭を営む頃、失意のドン底に昼といわず夜といわず喘ぎつづけていた鼠谷仙四郎は何処へともなく姿を晦《くら》ましてしまった。そのことは八十助と露子との耳にも入らずにいなかった。流石《さすが》に気になったので、探偵社に頼んで出来るだけの探索を試みたりしたが、鼠谷の消息は皆目《かいもく》知れなかった。これは屹度《きっと》、人に知れない場所で失恋の自殺をしているのかも知れないと、二人は別々に同じことを思ったのだった。
 ところがそれから三年経って、八十助は妙な噂を耳にした。それは鼠谷仙四郎が生きているというニュースだった。しかも彼は、同じ東京の屋根の下に、同じ空気を吸って生きていたのである。彼の勤め先というのは、花山火葬場の罐係《かまがかり》であった。
 当分は、彼は勤めに出ても、鼠谷のことが気になって仕事が手につかなかったが鼠谷は、別に彼等夫妻に危害を加えようとする気配もないばかりか、次の年にはチャンと人並な年賀状を寄越したりした。そんなことから八十助夫妻は、始めに持った驚愕と警戒の心をいつともなく解いていった。一年二年三年と経ち、それから五年過ぎた今日では、八十助にとって鼠谷仙四郎はもう路傍《ろぼう》の人に過ぎなかった。それには外にもう一つの理由があった。というのは、八十助の恋女房の露子が、この春かりそめの患いからポツンと死んでしまったため、彼は亡妻《なきつま》を争った敵手のことなんかいよいよ忘れてしまったのである。
 その鼠谷仙四郎が、こうして久し振りで目の前に現われたりしなければ、八十助は一生涯彼のことを思い出すことなどはなかったであろうのに……。
「ハテナ……」
 と、そのとき何に駭《おどろ》いたのか、八十助は舗道の上に棒立ちとなった。彼はつい今まで忘れていた重大なことを思い出したのだった。
「ハテ……、鼠谷仙四郎なら、あいつは確か死んでしまった筈だったが……」


   暗鬼は躍る


「鼠谷仙四郎なら、生きている筈がない!」
 八十助が顔の色を変えたのも無理はなかった。なぜなれば、いまから二三ヶ月ほど前、彼はハガキに印刷した鼠谷仙四郎の死亡通知を受取ったことを思い出したからだ。なぜそのような重大なことを度忘れしていたのだろう?
 その文面には、たしかに次のような文句があったと思った。
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「……鼠谷仙四郎儀、療養|叶《かな》わず、遂に永眠|仕候間《つかまつりそうろうあいだ》、此段謹告候也《このだんきんこくそうろうなり》。
追而《おって》来る××日×時、花山祭場に於て仏式を以て告別式を相営み、のち同火葬場に於て荼毘《だび》に附し申可く候《そうろう》……」
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 この文面から推《お》せば、彼はたしかに病気で死亡し、その屍体はたしかに火葬せられたのだった。しかも皮肉なことに、彼が生前世話を焼いていた花山火葬場の罐の
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