そう言うと、丸木は二、三歩さがり、きっと戸をにらんだ。
 驚いたことに、戸はめりめりと鳴った。今にもこわれそうだ。
 丸木は、からだでもって、薬屋の戸にぶっつかる。
 見ている千二は、びっくりした。
「丸木さん、およしなさい」
 千二は、一生けんめい、丸木をとめにかかったが、丸木の耳には、もう千二の言葉などは、全く聞えないらしい。
 そのとき、千二は、妙な音を聞いた。
 ひゅう、ひゅう、ひゅう、ひゅう、ひゅう、ひゅう。千二は、その妙な音を聞きながら、
(あれ、あの音は、どこかで聞いた音だぞ)
 と思った。しかし彼はすぐさま、そのことを忘れてしまった。そのわけは、丸木が、ついに、めりめりと薬屋の戸をおしたおしてしまったからである。
「あっ、乱暴者!」
「おい、みんな、力を借せ。こいつを取りおさえて、交番へつきだすんだ」
 奥で顔をあらっていた店員たちも、どっと店にとび出した。そうして、十人近い人数で、一人の丸木をとりまいた。
 だが、丸木はすこしも、ひるまない。長い外套の下から、足をだして、店員たちを蹴たおした。丸木に蹴られた店員は、だれでも、ううといったきり、二度とおきあがって来なかった。
 残った店員たちは、この烈しい丸木のけんまくに、すこしおそれをなして、後へひきさがる。
 その間に、丸木は、薬の壜を並べた棚のところにとんで行って、壜の上にはってあるレッテルを一々見ては、ちがっていると見えて、かわるがわる両手につかんで、店員の方へなげとばす。劇薬も毒薬もあったものではない。さわぎは、ますます大きくなった。
 そのうちに、丸木は、大きな声でさけんだ。
「ああ、あった。ボロンの壜があったぞ」
 と、丸木は、その場におどりだした。
 その時、丸木の後頭部めがけて、野球のバットが飛んで来て、ぐわんと大きな音をたてた。店員の一人が、この乱暴者を静かにさせるため、ありあわせのバットで、丸木の後から、なぐりつけたのだった。
 だが、丸木は、それには一向驚かなかった。そうしてボロンの壜を大事そうに、幾度もなでまわした。
「あれっ、こいつ! びくともしないぞ。へんだなあ」
 店員は、もう一度力まかせに、バットを振って、丸木の頭をなぐりつけた。丸木の頭は、ぐわんといった。そのはげしい音では、頭が破《わ》れたかと思ったが、やはり丸木は平気だった。しかし、どうしたわけか、その時から丸木の首は、急に曲ってしまった。たいへん妙な工合で、まるでおもちゃの人形の首を、ぎゅっと曲げたような恰好であった。
 丸木は、それでも平気であった。首を曲げっ放しで、ボロンの壜を腹のところに抱えると、表へとび出した。
 店頭には、もちろん、このさわぎをみようというので、弥次馬連中が、わいわい集って来て、店内をのぞいていたが、丸木は、おそれ気もなく、その連中を垣でもおしたおすように突きのけて、一散に戸外に走り出したのだった。
「おうい、待て。薬品どろぼう、待て!」
 店員と弥次馬連中が一しょになって、丸木の後を追いかけた。店をしめて、静かになったばかりの銀座は、とんだことから、火事場のようなさわぎになった。
「あれっ、いないぞ。どこへ行ったんだろう!」
「おい薬品どろぼう、こっちへ出てこい」
 出て行くものもないだろうが、とにかくどこへ逃込んだか、丸木の行方はわからなくなった。


   7 やみとひかり


 銀座に起った怪事件については、あくる朝の新聞は、たいへん大きな見出しで、でかでかと書きたてた。
「怪人、銀座に現れ、薬屋を荒す」
「怪事件におびえた昨夜の銀座通」
「共犯者の少年、逮捕さる」
 など、いろいろな見出しで書きたてられたが、「共犯者の少年」とは外《ほか》ならぬ千二のことであった。
 千二は、逃げそこなって、警視庁にひかれて行ったのである。
 その朝刊に、もう一つ銀座の怪事件が、並んで出ていた。
「宵の銀座に、奇怪な殺人。被害者は、若きタイピスト」
 各紙ともこの二つの事件は、別々の事件として新聞に並べて書きたてられた。
 ただ一つ、東京朝夕新報という新聞だけは、この二つの事件を一つと考えていいような風に、記事を書いた。
「怪人、深夜の銀座をあらして逃走す。美人殺害、薬屋の店員はあやうく鬼手をのがれた。満都の市民よ、注意せよ」
 この方の新聞記事は、かなり市民を驚かした。犯人が逃走したまま、まだつかまらないから、注意をするようにと書いたことが、市民の胸に、大きな不安を植えつけたのだった。
 かわいそうなのは、千二少年だった。その前夜から、へんな目にあい通しであった。そのあげく、怪人丸木にこきつかわれ、共犯者ということになり、警視庁の留置場《りゅうちじょう》へ、放りこまれてしまったのである。
 千二は、冷たい壁にとり囲まれた留置場に、しょんぼりと坐っていた。彼は悪い夢をまだ見つづけているような気がしていた。
 千二は、警視庁の留置場へほうりこまれたのち、ほんのちょっと調べられただけで、あとはそのまま留置場の中に、忘れられたようにとめおかれた。
「うそをつくな。うそをついている間は、一カ月でも二カ月でも、ここへほうりこみっぱなしだ。一つ、よく考えなおしてみろ」
 そういう言葉を、千二は、痛いほどつよく、小さい胸におぼえている。それは、取調が終って、再び留置場にほうり込まれる前に、掛官の大江山課長から、なげつけられた言葉だ。
 だが、千二は、なにもうそなどはついていない。ほんとうのことを答えたのであるが、課長が、それをほんとうにしないだけのことだった。
 千二のことも新聞に出た。
 ある新聞には、千二の顔が大きく出ていた。それはどこでとった写真か、千二が見たら、きっとなげくに違いない写真だった。
 その写真は、一年前、成田町でとったものだ。その時、写真屋さんの店へ上ったのは、千二ただ一人ではなかった。新田《にった》先生も、一しょだった。つまり新田先生が、小学校をおやめになって、大阪へ行かれるのを、成田町まで千二が送って来て、そうしてその別れの記念にとった写真であった。新聞社は、どこからか、その記念写真をさがし出して来て、千二の顔だけを大きく伸ばして、写真版につくりあげたのである。思出のふかい写真から、複製したものだったのである。
 だが、千二は、彼の顔が新聞に出たことは知らない。だから、その写真が使われたことさえ、知らないのだ。
 しかしながら、新田先生の方では、千二の顔を新聞の上に発見して、たいへんおどろいた。そうして顔をまっかにして、怒りの声を発した。
「こんなばかなことが、あってたまるものか。あの千二君が、共犯者だなんてことがあるか!」

 千二少年のつよい味方が、一人あらわれたのである。
 新田先生は、つい一年前に別れた教え子の千二が、とんでもないうたがいをうけ、警視庁に入れられたことを朝刊で知り、その場で東京へいこうと決心した。それはもちろん千二のために弁護して、留置場から一刻も早く出してやりたいためだった。
「あの千二君が、あんなむさくるしい留置場にはいっているのだと思うと、かわいそうで、たばこをすう気さえ起らなかった」
 と、後に新田先生は、その頃のことをふりかえって、思出話をなさったことである。
 とにかく、その朝先生はすぐに電話を日本空輸にかけた。それは東京行の旅客機に乗れるかどうかをたずねたのである。たとえ一時間でも一分間でも、早く千二の困っている東京へいきたいと、新田先生は飛行機でいく道を選んだのである。
 幸いに、座席が一つあった。予約してあった客の一人が、急に都合がわるくなって、それに乗らないことになったのである。新田先生は、すぐそれに乗りこんだ。
 この新田先生というのは、千二少年の組に理科を教えていた先生である。一年前に、小学校をよして、大阪へいった。大阪では、教鞭をとるのではなかった。大阪帝国大学工学部の聴講生となって、さらに勉強をしようというのであった。新田先生の専攻するのは、ロケットであった。
 ロケットというのは、飛行機と同じように、空中に飛びまわる新しい乗物である。まだ研究が完成していないので、あまり大きなものはないが、行く行くは、地球の旅行にも、あるいはまた宇宙を飛びまわるにも、このロケットがたいへん都合のいい乗物であった。
 新田先生は、お昼前、無事に東京羽田の空港に着いた。
 新田先生は、東京の羽田空港で旅客飛行機から下りると、すぐその足で、とるものもとりあえず、千二少年の留置されている警視庁へ駈けつけた。
「何の用ですかね」
 と、受附の警官はたずねた。
 そこで先生は、じつは、これこれしかじかと、千二少年のことをのべ、あの少年は自分のいい生徒だったから、殺人事件を一しょにやるような悪い子供ではない、ぜひ許してやっていただきたいと、まごころを面《おもて》にあらわして言った。
 受附の警官は、たいへんいい人であった。新田先生の話に、すっかり同情して、
「そうですか。そういうことなら、誰よりもまず捜査課長の大江山警視にあって、よく話をしたらいいでしょう。ちょっとお待ちなさい。今会えるかどうか、私が聞いてあげましょう」
 と言って、親切にも、他の来訪客を待たせておいて、大江山課長へ話をしてくれた。
 その口添がきいたのか、課長は、すぐ新田先生に会ってくれることになった。
 先生が、みちびかれてはいったのは、応接室ともちがう小さな部屋だった。壁は防音材料で出来、となりへ話が洩れないようになっていた。その壁に、一枚の鏡がかかっているのが、どうもこの部屋に似合わしからぬものだったが、これは、この部屋からみると鏡としか見えないが、隣室から見るとこの部屋の様子がすっかり見えるという、一種の魔法の鏡であった。
 また机の下には、マイクロホンが隠してあった。ひとり言を言ったり、悪者同士が話をすると、その話はすぐ警官の前においてある高声機から、大きな声になって出るという仕掛であった。
 さすがに、警視庁だけあって、最新の仕掛がしてあり、悪人を調べるのには、すきがない。外に応接室がなかったので、新田先生はここへ案内されたわけであった。
 新田先生が待っていると、そこへ一人の痩せぎすの、背のひょろ高い背広の紳士がはいって来た。顔は若々しいのに、頭はすっかり禿げている。ちょっと見ると、老人だか若いのか、わからない。
「やあ、どうも待たせましたね」
「はあ、あなたは一体どなたで……」
「私が大江山警視です」
「はあ、あなたが大江山さんですか。これはとんだ失礼をいたしました」
 警視庁のいかめしいお役人といえば、さぞかし金ピカの服に、サーベルをがちゃがちゃさせていると思っていたのに、これはまた、たいへんくだけた姿、くだけた物腰だった。新田先生は、正直にそのことを言ってお詫びすると、課長は笑って、
「いや、皆さんがそう思っとるので、困りものですよ。警視庁の役人は、善良な市民諸君のため、悪い者をおさえるのが役目なんです。悪い者に対しては容赦しませんから、こわい顔をしますが、善良な市民諸君に対しては、親類のように思って接しています。実際の役柄から言って、そうなんですからね。子供たちには、それがよくわかると見え、おまわりさんと言って慕《した》ってくれます。大人《おとな》の人には、まだよくわかってもらえないようで、残念ですがね」
 と言い、光のある自分の頭をつるりとなでた。
「大江山さん、私の元の教え子の千二少年のことでうかがったのですが、千二少年は殺人共犯者となっていますが、彼はそんなことをするような生徒ではありません。どうか、放してやっていただきたいものです」
 新田先生は、そう言って、頭を下げた。
「さあ、そのことですよ、新田先生」
 と、課長は、にわかに別人のように、きつい顔になって、
「私も、千二君が、そのような悪人でないことは、大体認めている。しかし、どうも今困ったことがある!」


   8 先生と教え子


 新田先生が大江山課長から聞いたところによると、怪人丸木の行方は、さらに、わからないそうである。
「これは困ったこ
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