葉県にいたはずだけれど、どうしてこんなに早く東京へ着いたの」
「そんなこと、どうでもいいじゃないか」
 すぐ横で、丸木のこえがした。
 千二が、横をふりむくと、そこには、例の黒ずくめの服装をした丸木が、眼鏡をきらきらさせて、立っていた。
「さあ、薬屋へいくんだ。いいかね。逃げると承知しないぞ」
 そう言って丸木は、千二の手を握った。
 それは氷のように冷たい手だった。いや、丸木は革の手袋をはめているらしい。
 二人の立っているところは、銀座裏の掘り割りのそばで、人通りはなかった。だからこの二人は、怪しまれることもなしに、こんな会話をすることが出来た。
「薬屋へいって、なにを買うの」
「ボロンという薬だ。ボロンの大きな壜を、二、三本買いたいのだ」
「ボロンを、どうするの。何に使うの」
「おだまり。お前は、早く薬屋をさがせばいいのだ」


   6 悪人《あくにん》丸木《まるき》


 丸木におどかされながら、千二は、賑やかな銀座の通に、ようやく一軒の薬屋さんを見つけて、その店先をくぐった。
 千二は薬剤師らしい白い服を着た店員に、
「あのう、ボロンの大壜《おおびん》を二、三本売ってくれませんか」
 と、おそるおそる言った。
「ボロン? ボロン? 硼素《ほうそ》のことですか」
「さあ……」
「白い粉末になっているやつでしょう」
「さあ、どうですかねえ」
 千二は、何も知らないので、弱ってうしろをふり向いた。すると、店先で、他人をよそおっていた丸木が、
(それだ、それだ)
 という意味を千二につたえるため、うなずいてみせた。千二は、元気づいて、
「ああそれですよ。白い粉末のボロンです」
「精製のものと、普通のものとありますが、どっちにしましょうか」
「さあ、精製のと普通のと、どちらがいいのでしょうかねえ」
 千二は、またうしろをふり返った。すると丸木は、手を上にあげて、信号をした。精製の方のがいいという意味らしい。
「いい方を下さい」
「はい、承知しました。三本でよろしいのですね。では一本、ただ今二円三十銭ですから、三本で、六円九十銭いただきます」
「六円九十銭ですとさ」
 千二は、丸木の方をふり返って、そう言った。
 すると、おもいがけなく、丸木が急に、そわそわしだした。
 たいへんあわてているのであった。彼はしきりに胸のところを叩いている。何かよほど困ったことがあるらしい。
「丸木さん、一体どうしたの」
 千二は、丸木のところへやって来て、わけをたずねた。
 丸木は、いかめしい姿に似合わず、ひどくあわてている。その様子が、ますますはげしくなった。
「おい千二。お前、金を持っていないか」
「僕? 僕は、お金なんかすこしも持っていない。なにしろ、魚をとりにいくために家を出かけたので、お金なんか一銭も持っていないですよ」
「そうか。それは、どうも困った」
「丸木さんは、お金を持っていないの。なくしたんですか」
「いや、お金のことは知っていたが、ついそれを用意することを忘れた。そうだ、買物をする時には、お金がいるんだったなあ。ああ、大失敗だ」
 丸木は、ひとりでさわいでいる。
「じゃあ、ボロンを買うのは中止ですね」
「それは困る。どうしても、ボロンを買っていかなければ、困ることがあるのだ」
 丸木は、今はもう自分に代って、千二に用事をしてもらっていることが、がまん出来なくなった。彼はいきなり薬剤師の白い服をつかまえ、
「ねえ君、金はあとでとどけるから、ボロンを渡してくれたまえ」
 薬剤師はおどろいた。いきなりお客さんに、自分の服をひっぱられたのだから。
「あっ、そう乱暴しちゃ服がやぶれますよ。はなして下さい」
「ぜひ、ぜひボロンをたのむ」
 丸木は、必死であった。
「いや、いけません」
 年のわかい薬剤師はすこし怒っているらしく、きっぱり丸木のたのみをしりぞけた。
「そう言わないで。あとから君にも、たっぷりお礼をする」
「いや、だめです。お金を持って来なければ、ボロンでも何でもお渡し出来ません」
「どうしても、だめか」
 と、丸木はうらめしそうに、薬剤師をにらみつけた。
「お金を持って来ない人に、どんどん薬を上げていたのでは、商売になりませんや。じょうだんじゃありませんよ」
 と、若い薬剤師は、丸木にからかわれたとでも思ったのか、本気になって、怒っている。
「ふふん。どうしてもだめか」
 丸木は、あらあらしい息で、またうなった。全く気味のわるい人物である。
「ああ金! 金さえ持って来れば、ボロンを売ってくれるんだな」
「もちろんですよ。たった六円九十銭ぐらいのお金に、おこまりになるような方とも見えません。じょうだんはおよしになって下さいよ。本気のお買物なら、もう午後九時も近くなりましたから、早くお願いいたします」
「金は、今ここに持っていないのだ。だが、すぐあとから持って来る。金を持って来れば、かならずボロンの大壜を三つ渡してくれるね」
「そんなに、くどくおっしゃって下さらなくとも、大丈夫です。かならずお渡しいたします」
「きっとですぞ。きっとだ! もしそれをまちがえたら……」
 と言いかけて、丸木は、後の言葉をのみこみ、
「いや、すぐにお金を持って来る。待っていてくれたまえ」
 おし問答のはて、丸木は薬屋の店をとび出した。
「おい千二。お金を手に入れなければならないんだ。さあ、お前も来い」
 何を考えたか、丸木は、千二の手を取ってどんどん走りだした。
 もう午後九時は近い。が、銀座通は、昼間のように、たいへんにぎやかであった。
 丸木はその人込の中をわけていく。一体彼は、なぜお金を持っていないのであろうか。
 丸木は、千二の手を引いたまま、夜の銀座通の人波をかきわけて、どんどん前へ歩いていく。
「丸木さん、どこへいくの」
 千二が、心配になって聞くと、
「だまっておれ。声を出すと、ひねりころすぞ」
 丸木は気がいらいらしているらしく、ひどい言葉で、千二をしかりつけた。千二は、丸木の冷たい手から、自分の手をはなそうと試みたが、丸木の手は、まるで大きな釘抜のように、千二の手をしめつけていて、はなすことが出来なかった。
 丸木の歩調が、少しばかり遅くなった。彼はしきりに、いろいろなものを売っている店先に、目を向けている。そこには、美しく飾られた飾窓をのぞきこんでいる人もあれば、中で何か買物をしている人も見える。
「ああ、金だ、金だ」
 丸木は、時々ひとりごとを言った。
 そのうちに、丸木はぴったりと足を止めた。
「どうしたの、丸木さん」
「しっ、だまっておれと言うのに……」
 この時丸木の目は、大きな鞄店の中で、りっぱなハンドバッグをたくさん前に並べ、どれを買おうかと、しきりに見ている一人の年の若い、洋装の女の上に釘づけになっていた。
 やがて、その洋装の女は、中で一番りっぱな鰐革のハンドバッグを買った。その時かの女は、抱えていた白い蛇の革のハンドバッグの中から、たくさんの紙幣をつかみだして、店員に支払った。
「ああ金だ。たくさん金を持っている」
 丸木は、またうなった、そうして、買物をして出ていくその洋装女の後姿をふりかえって、じっとみつめていたが、
「おい千二。ここで待っていてくれ」
 と言った。
 丸木は、千二に向かって、ここに待っていてくれと言うのだ。
「ああ、待っていますよ」
 千二は、ひょっとすると、この間に、丸木の手から逃出すことが出来はしないかと思ったので、そう返事をした。
「すぐ、おれはここへ帰って来る」
 そう言置いて、丸木は千二をはなすと、すたすた歩き出した。
(どこへいくのだろう?)
 千二は、その時ふといやな気持になった。丸木は、さっき見とれていた、あの洋装女から、金を借りるつもりではないかと思ったのである。だしぬけにそんなことを頼まれては、さぞかし女の人は驚くだろう。
 千二は、たいへん心配になった。
「おうい、丸木さん」
 千二は、じっとしていられなくなって、丸木の後を追いかけた。
 だが、丸木の姿は、いつの間にか人込のなかに吸いこまれて、どこへいったのか、わからなくなった。それでも千二は、あっちへいったり、こっちへかえったり、いやな胸さわぎをおさえつつ、しきりに丸木の姿をさがしもとめたのだった。しかし、それは、遂にむだに終った。
 千二は、またいつの間にか、元の所へもどって来た。
「おい、千二」
 だしぬけに呼ばれて、千二はびっくりした。それは丸木だった。いつの間にか、丸木が帰って来ていたのだった。
「ああ、丸木さん。どうしたの」
「どうしたって、ふふふふ」と、丸木は、へんな笑い方をして、「お金はこんなにある。さあ、これを持っていって、あの薬屋で、ボロンの大壜を三本買ってくれ」
 そういう丸木の手には、たくさんの紙幣《さつ》が握られていた。不思議なことである。どこでこんな大金をつくったのか。
 どこから手に入れたか、丸木の握っている大金!
「丸木さん。このお金は、どこから持って来たんですか」
 千二は、息をはずませて、たずねた。
「ふふふふ。さっき、洋装の美しい女がいたのを、知らなかったかね。あの女が持っていた金だよ」
「はあ、そうですか。あの女の人が、丸木さんに貸してくれたというんですか」
「貸してくれたって。いや、ちがうよ。あの女の持っていたのを、こっちへもらって来たんだ。そんなことはどうでもいいじゃないか」
「すると、丸木さんは、あの女の人から、お金を取ったんですね。女の人は、きっと怒ったでしょう」
「ふん、怒ったかどうだか、ちょっとなぐりつけたら、おとなしくなって、地面に寝てしまったよ」
「えっ、そんなことをしたんですか。丸木さんはいけないなあ。女の人をいじめたりしちゃ、いけないですよ。もし、死んでしまったら、どうします」
「死ぬ? はははは、死ぬことが、そんなにたいへんな問題かね」
 丸木は、悪いことをしたと思わないのか、声高く笑った。
(ああ、悪い奴だ。丸木さんは、とんでもない悪人だ!)
 千二は、あきれてしまった。
「おい千二、何をぐずぐずしているのか。金が手にはいったんだから、すぐボロンを買うんだ。さあ、一しょにいってくれ」
 丸木の冷たくてかたい手が、千二の手くびをにぎった。千二は、丸木にひきずられるようにして、人影もようやく少くなった銀座の通を走った。そうして、例の薬屋の店先まで来た。その時丸木は、驚きの声をあげた。
「おや、この家だと思ったが、店がしまっている」
 薬屋の店は、もうしまっていた。そうであろう。商店法により、午後九時を過ぎると、店をしまう規則になっている。
 丸木は、ぷんぷんおこりだした。
 そうして、薬屋の戸を、われるようにどんどん叩いた。
「もしもし、さっきの店員の人。金を持って来たから、ボロンを売ってくれたまえ」
 店の中では、人の話しごえが聞えるが、だれも丸木にこたえる者がなかった。
「もしもし、さっき君は、金を持って来れば売るとやくそくしたじゃないか。さあ、ボロンを売ってくれたまえ」
 すると店内から、ばかにしたようなこえで返事があった。
「もう九時を過ぎましたから、商店法の規則で、品物はうれません。明日《あした》にして下さい」
 これを聞いて、丸木は、獣のようにおこりだした。
「おいおい、金を持って来れば、売ると言ったのに、それじゃあ話が違う。ぐずぐず言わないで、この戸をあけろ」
「そりゃ売ると言いましたが、今晩のうちに売るとは言わなかったですよ。商店法なんですから、なんといってもだめです」
「なにっ、どうしても売らないと言うのか。今になって売らないと言うなら、この戸を叩きこわして、はいるぞ」
「そんな乱暴なことをやっちゃ、だめですよ。しかしこの戸は、あなたのような乱暴な人をはいらせないために、かなり丈夫に出来ているんです。お気の毒さまですが、あなたの手が痛いだけですよ」
 店員もなかなか負けていない。丸木は、それを聞くと、益々たけりだした。
「これだけ言っても、言うことをきかないなら、わしは、好きなとおりにやる。お前などを相手にせんぞ!」
 
前へ 次へ
全64ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング