の命をすくう法はないものであろうか。
 二十億年の年月を経た地球が、宇宙のぶらつき者のモロー彗星にうちあたられ、目にもとまらぬ速さで、一団の炎となり果てるとは、まことに夢のような話である。
「おお、お前たち、そこで、何をしているのか」
 とつぜん、うしろに蟻田博士のこえがした。千二は、博士がうらやましかった。地球が、やがてこわれるというのに、涙一滴こぼすどころか、平気なのである。
「なあんだ、二人ともめそめそして……」
 博士は叱りつけるように言った。
 博士に叱られて、新田先生と千二とは、涙をふいた。
「なあんだ、お前たちのその顔は……」
「博士、あなたは、地球に家族もなければ、なんの心のこりもないのでしょう。だから、地球の最期が来ても、涙一滴出さずにいられるのです。私や千二君などは……」
「おい新田、待て。そういうとわしは、なんだか鬼みたいな人間に聞えるではないか。わしにも家族はある」
「え、博士に家族がおありですか。それは失礼ですが、ほんとうですか」
「全く失礼なことをいう奴じゃ。家族のない人間は、未完成というか、感心出来ないよ。わしには家族があって、ちゃんと地球の上に住んでいる」
「そうでしたか。しかし博士は、その家族の方のために、一滴の涙もこぼされないのは、どういうわけですか」
 先生は、不思議そうにたずねた。
「ここで、いくらたくさんの涙をこぼしてみても、どうにもならないではないか。ええ、そうだろう」
「しかし……」
「まあ、お聞き。わしに言わせれば、人間が悲しんだり、それからまた体を楽にしたりすることは、死んでからあとのことにすればいいのだ」
「えっ、なんでしょう、今おっしゃったことは?……」
「これが通じないかなあ。つまり、人間は死んでしまえば、そのあとにはもう用事もなくなるし、たずねてくる者もない。そこで、死んでからゆっくり悲しめばいいし、また休んだり楽をしたりすればいい。生きている間に、悲しんだり楽をしようとしたりするのは、大まちがいというものだ。生きている間は、そんなことは後まわしにして、どんどん働くのだ。生きているうちにやる仕事は、たくさん残っている」
 と、博士は、青年のような元気で言った。


   65[#「65」は縦中横] 二つの月


 大空艇は、ついに火星の領空に達した。
「着陸の用意だ」
 と、博士はひとりでいそがしい。
 火星のロロ公爵とルル公爵は、にわかに元気づいたようである。
「おい、新田と千二君。お前たちに、これをわたしておく」
 と、博士は二人を呼んだ。
 二人が博士の側へいってみると、そこには、潜水服についている潜水かぶとのような形のものが三個、床の上におかれてあった。
「博士、これは何ですか」
 と、千二は、不思議な顔。
「これを頭にかぶるのじゃ。いや、まだ今からかぶらなくてもいいが、大空艇が火星に着陸し、いよいよ火星の地面の上を歩く時には、これをかぶるのじゃ。そうしないと、われわれ地球の人間は息が苦しくなる。火星の表面では、空気が少いのだからなあ」
「ああ、すると、これは酸素を出すマスクですね」
「そうだ。このかぶとの横に、耳のような筒が左右にぶらさがっているが、この中には固形酸素がはいっているのだ。その上にある弁を動かせば、かぶとの中に出てくる酸素の量がかわるから、好きなようにやってみるがいい」
 博士はそれから、かぶとを二人にかぶらせて、かぶりかたを教えたり、弁の動かしかたを教えたりした。
「どうだ、わかったか」
「ええ、わかりました。しかし、この重いかぶとをかぶると、僕は歩けないなあ。子供用のかぶとはないのですか。これは大人用でしょう」
 と、千二は困った顔だ。
「いや、子供用というのはない。用意してなかったのだ。しかし、見かけは重いが、火星の上ではそんなに重くはないよ」
 大空艇は、流星のように火星の表面へ落ちていった。
「あと三時間で着陸だ」
 と、博士は言った。
 火星は、いつの間にかどんどん大きくなり、そのころには、もう、たらいぐらいの大きさになっていた。実に、どんどん早く大きくなる。
 大空艇は、かなりものすごい落下速度を出しているが、速度の変りかたがうまくいっているので、からだには、あまりこたえない。
 千二は、火星に近づいたので、何だか、急に嬉しくなった。彼は、火星の見える窓にのびあがって、しきりに眺めている。
 だが、変なことに、火星のおもては、地球のようにはっきりしない。何となく、どんよりと曇っている感じだ。
 ちょうど、苔《こけ》のついた古い金魚ばちの中へ、地球儀をほうりこんで、それを外から見ているような感じだ。
 千二は、そのことを新田先生に話した。すると先生は、
「それはね、火星の外側は、塵《ちり》のようなものが、たいへんたくさん集っていると、ある学者が発表したことがある。だから、その火星塵《かせいじん》の、あつい層を下へつきぬけなければ、火星の表面は、はっきり見えないわけだ」
「火星塵の、あつい層ですか。地球にはないものが火星にはあるのですね」
「そうだ。地球と火星とは、形こそ似ているが、違うことはいろいろたくさんあるよ。ほら、あそこをごらん。火星のお月さまが見える」
「えっ、どこですか」
「あそこだ」
 先生の指さすところをよく見ると、なるほど、月らしいものが浮いている。
「ああ、あれが火星の月か」
 と言ったが、千二は、へんな顔をして、
「先生、あれはなんでしょうか。こっちの方からも、月のようなものが出て来ましたよ」
 と、左の方を指さした。
 見たところ、ちゃんと月の形をしている。それが、はじめの月と反対の方向に、ぐんぐんとまわりだしたのである。
「ああ、あれも、火星の月だ。小さい方の月だ」
「えっ、小さい方の月? すると、火星には、大きい方の月もあるのですか」
 千二は、ますます不思議そうな顔であった。
「そうなんだ、千二君。君は、火星に二つの月が、ついてまわっていることを、知らなかったのかねえ」
「二つの月ですって。お月さまは、一つだけのものだと思っていました。火星には、月が二つもあるのですか」
「そうだよ。小さい月がデイモス、大きい方の月がホボス、そういう名なんだ」
「へんな名前ですね。一度じゃあ、おぼえられないや」
 と、千二は、首をふった。
「デイモスにホボスだよ」
「あっ、先生、こっちの大きいお月さまは早いですね。もう、あんなに動きましたよ」
「そうだ。ホボスの方は、たいへん早くまわるのだ。一日のうちに、火星のまわりを三回ぐらいまわるのだ。デイモスの方は、一日では火星のまわりを、まわりきらないのだ。三十時間しないと、一回分まわらないのだよ」
「火星って、実に不思議な国ですね。お月さまが二つあったり、それがたがいに反対にまわったり、それから一方のがのろのろしていて、他方のがかけ足で三回もまわったり、ああ、ぼくらの地球とは、まるで違うのですねえ」
 千二が、目をまるくして火星の月をみていると、その二つの月は、ぐんぐん近づいて衝突しそうに見えた。
「あっ、お月さまの衝突だ!」
 千二は、思わず、そう叫んだ。火星の二つの月が、反対の方向からだんだん近づいて、衝突するかのように見えたのである。
「大丈夫。衝突なんかしないよ。地球とモロー彗星の場合とちがうのだ」
 新田先生はそう言ったが、千二が見ていると、たしかにその通り、衝突すると見えた二つの月は、いつの間にか左右にわかれ、今度は、少しずつ離れだした。
「なるほど、衝突はしなかったですね」
 千二は、かんしんして言った。
「地球とモロー彗星も、あのように、うまく衝突しないで、すれちがえばいいのだが……」
 と、新田先生は、しみじみと言った。どうも先生の頭には、いつも地球のことが、こびりついているようであった。
 操縦室では、蟻田博士が、ロロ公爵とルル公爵に対し、熱心に話を続けている。
「……それじゃ、やっぱり、カリンの岬に大空艇を着けますかね」
 と、博士が言えば、
「それがいいですよ。カリンの岬なら、丸木なんかが攻めて来ようとしても、ちょっと手間がとれますからねえ」
 と、ロロ公爵が賛成した。
「あそこには、水底に洞窟《どうくつ》がありましたね」
 と、蟻田博士がたずねた。
「そうです。カリン下の洞窟のことですね。あそこは、かくれるのに持って来いのところです」
「洞窟と岬との間には、抜道のようなものがありましたね」
「ああ、ありますとも。五つの扉をあけないと通れませんが、階段がついていますよ」
「その扉は、どうすればあくのでしたかねえ」
「呪文を唱えればいいのです」
「その呪文は」
「ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレと言えばいいのです」
「むずかしい呪文ですなあ。ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレか」
 蟻田博士は、口をもぐもぐさせて、この言いにくい呪文をくりかえした。
「そこでロロ公爵、あなたは、火星へ帰られると、すぐ旗あげをせられますか」
「ええ、やりますとも。ルルが、ぜひともやると言って、意気ごんでいるのです」
 と、ロロ公爵は言って、側にひかえたルル公爵をふりかえった。
 ルル公爵は、いつも、だまっているのが好きであった。この間の病気以来、ルルは、前よりも一そう口かずが少くなった。何かしゃべるのは、いつもロロばかりであった。
 火星の王子であるこのロロ・ルルの兄弟は、蟻田博士のため危ういところを救われ、地球の上で大きくなったのであるが、こんどいよいよ火星へ帰ると、すぐさま旗あげをして、もとの王家をさかんにしたい考えだった。
「旗あげをするには、どこを本城とするのですか」
 蟻田博士は、しんぱいのあまり、なんでもかんでも、今のうちに、聞いておかねばならぬと思っている。
「本城は、クイクイ運河地帯を目の前に見渡すペペ山におくつもりです」
「なるほど、ペペ山ですか。ペペ山なら、なかなかいいところです。あの切りたったような断崖は、まことにりっぱですね。わしもこの前火星へいったときには、ペペ山へは時々いってみましたよ」
「ペペ山は、私たちの祖先たちが、かならず大事にしていたところです。祖先のたましいが、あの山いっぱいに、こもっているのです。そうして何か大変な時には不思議なことがあって、私たちをまもってくれる霊山です。この前は、あの山を敵のため、すぐ奪われたので、いけなかったのです」
 ロロ公爵は、しんみりと言った。
 千二少年は、新田先生とならんで、窓の外を見ていた。はんたいの方向にまわる火星の二つの月はだんだんと両方へ離れていく。見れば見るほど、不思議な月であった。
「先生、ぼくは、なんだか夢を見ているような気がします。いま、ぼくは、ほんとに火星のそばまで来たのでしょうか」
「そう思うのは、もっともだ。わたしも、火星へ来たのは、はじめてだ。やっぱり夢を見ているような気がするよ」
 先生もおなじようなことを言った。
 そのうちに、どうしたわけか、あたりが急に暗くなった。
「おや、暗くなったぞ」
 千二少年は、ガラスが、どうかしたのかと思って、服の袖でしきりにガラスをふいた。
 だが、そんなことは、一向ききめがなく、だんだんと暗さがました。
「おやおや、火星が見えなくなってしまった。いままで、あのように美しくかがやいていた火星が、急にすがたを、けしてしまった。先生、これは一体どうしたわけですか」
 すると、新田先生は、しずかにうなずき、
「千二君。窓ガラスをよく見たまえ」
「え、窓ガラスですか」
「ガラスの上に、何か見えないかね」
「さあ。――」
 と言ったが、千二が見ると、外からガラスの上を、なんだか黒い粉のようなものが、ふきつけている。
「ああ、この黒い粉みたいなものは、何でしょう」
「わかったかね。それは火星塵だ。つまり、火星のまわりを、こまかい塵の層がつつんでいるのだ。それを火星塵の層といっているが、いまわれわれは、その塵の層のまん中に、はいったのだよ。だから、まっ暗なんだ」
「ああ、そうですか」
 千二は、なんだか、たいへん心ぼそくなった。まっ暗な井戸
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