月と、月の面は少しもかわったことがない――と、そう思った人々は腹立たしさを感じた。いよいよ矢ヶ島天文台の台長のため、一ぱい食わされたかと思ったからである。
 ところがその中に、
「おやおや、どうもおかしいぞ!」
 と、首をひねった熱心な素人天文家が二、三いた。
「どうもおかしい。スミスの海が、すっかり見えなくなった。おやおや、これは今まで地球からは見えなかった月の面が、あそこのところへ見え出したぞ。そうだ、あの山なんか始めてお目にかかる山だ! これは不思議だ」
 不思議なことである。これがほんとうなら、月はこのところ急に地球に対して、少し軸をかえたらしいのである。
 果してそれにまちがいなければ、たしかに月は異常運動を始めたのである。一体それは、これからどんな影響を我が地球の上におよぼすのであろうか。
 矢ヶ島運動――と、後になって、この変な月の運動のことを呼ぶようになった。
(妖星モローが、一たび地球に襲いかかると、月さえ怪しげな運動を始める。何という歎かわしいことか!)
 そんな風に、矢ヶ島運動のことを歎く人もあった。
 さすがの蟻田博士も、このことには気がつかなかった。ちょうど博士は、地底深くはいって、例の十号ガスの製造に一生懸命になっていて、その他のことは、一切打棄ててあったのである。矢ヶ島運動が発見されたのは、その間の出来ごとであったのだ。素人天文家の大手がらであったのだが、その時は、誰もそれが大手がらであることに気がつかなかった。何しろ、もうあと数日後に地球が崩壊するという時のことだから、皆、かあっとのぼせていて、そんなことを静かに考えてみる人もなかったし、矢ヶ島その人は、ある予想はしていたものの、たいへん内気な人で、自分のような素人が言いだして、もしも間違っていたら申訳がないと、つまらぬ遠慮をしていたわけであった。
 矢ヶ島運動が、後にいかなる重大な事件をおこすか、それについては、今しばらく書くことをとどめていなければならない。
 新田先生も、この時は少しぼんやりしていたと言える。しかし、それも仕方がないことだった。先生は、蟻田博士が、人類のために断然立って、火星人と戦うと言ったので、嬉しさのあまり先生も、のぼせあがっていたきらいが、ないでもなかったのだ。
 それで先生は、その間何をしていたかと言うと、しきりに食料品を集めていたのである。これから宇宙へ飛出して、火星兵団と戦うことになれば、ずいぶん地球を離れることになろうから、その間、博士におなかをすかさせては、一大事だと思ったからである。……ある朝、突然、蟻田博士は部屋へ戻って来た。約束どおり、三日の後のことであった。


   53[#「53」は縦中横] ガスピストル


 蟻田博士が帰って来た。
 それは、約束にたがわず、ちょうど三日目のことであった。
「あ、博士。うまくいきましたか」
 新田先生は、何よりもまず、そのことを聞かずにはおられなかった。
「ああ、まずうまくいったつもりだ。これから毎日、十トンずつの十号ガスの原液を作り出せることとなった。これだけあれば、火星人と戦っても、まず大丈夫だろう」
「ほう、そんなにたくさん出来ますか」
 と、新田先生は目を円くした。
 一体、どこまで蟻田博士はえらいのだか、そのえらさ加減は、底が知れない。知らない者から見れば、博士はまるで魔術師のように見える。しかし博士は魔術師ではない。六十年近くというものを、研究にささげたそのとうとい努力の結果である。
「その十号ガスの原液は、どこにあるのですか」
「水道のように、管から出るようになっているよ。原液製造機械が動くと原液が出来る。それを地下タンクにためる仕掛になっている。そのタンクには、別に圧搾空気を使うポンプがとりつけてあるから、管の栓をひねると、その原液は水のように、いくらでも出て来るのだ」
 博士は事もなげに言う。
「ははあ、驚きましたねえ。ところで、その原液は、私たち人間にかかるとどうなりますか。やっぱり体が蒸発してしまいますか」
「いや、そんなことはない。人間の体を蒸発させるような、そんなものではない。しかし、何か作用があると思われるが、そのことは試験をしているひまがなかった。何分にも、早くこれを使わないと、火星兵団のため、崩壊前の地球を、すっかり占領されてしまうことになるからのう」
 と、博士はささやくように低い声で言って、持っていた荷物を開くと、中からピストルに似たへんな器具を取出した。
「博士、それは何ですか。変った型のピストルみたいに見えますが……」
 と、新田先生は言った。博士が荷をといて取出したのは、まさにピストルとしか見えないものだった。ピストルの胴を、うんとふくらませて、ひだをつけ、握ると、こぶしをすっかりかくしてしまうようなものだった。
「これかな。一挺お前にわたしておく。これは十号ガスを発射するガスピストルだ。あまり遠くへはとばないよ。まず百メートルが関の山だ」
「百メートル? 百メートルなら使いものになりますよ」
 新田先生は嬉しそうな顔で、博士からもらったガスピストルを握って、しきりに胸のところへ持って行ったりして、早く一発撃ってみたそうである。
 それを見て博士は言った。
「だめだめ。こんなところで、そのピストルを撃ってみても、こわれるものは一つもありはしない。それよりも、これからわしと二人で、火星兵団の奴を追いかけて、ためしてみようではないか。支度をしたまえ」
「えっ、ためしに火星人を撃ってみるのですか」
 先生は、嬉しいような、こわいような気持になった。
 博士の方は、そんなことには一向お構いなしに見えた。
「さあ、すぐ出かけよう。ついて来たまえ」

 と言ったかと思うと、はや部屋をずんずんと出て行ってしまった。先生は驚いてその後を追いかけたが、博士の姿は見えない。地下から地上へ出る階段をかけ上って見たが、博士はどこに行ったか見えない。
 そこで先生は、もう一度階段を下りて、もとの部屋へ引返そうと後へふり向いた。とたんに「あっ」と叫んだ。
 驚くのも道理、いつの間に忍び寄ったか、そこには、黒装束の火星人が立っていたのだった。
 先生はぎょっとした。いつの間に、火星人がこんなところまで、はいって来たのであろうか。全く、ゆだんもすきもあったものではない。
「博士、火星人がここにいます」
 先生は、ぱっと身をひるがえして駈出しながら、博士のうしろを追いかけた。
「わ、は、は、は、は」
 と、火星人は大声で笑った。
 先生は、もうだめだと思った。そこで、博士からあずかった十号ガスのピストルを、火星人の方へ向けて、
「さあ、これを食《くら》って往生しろ!」
 と言うなり、引金を引いた。
 ぱさっと音がして、ガスピストルはガスを撃出した。
 黄いろい煙があたりに広がった。
「わ、は、は、は、は」
 火星人は煙の中から笑う。
「しまった!」
 先生は、もう一度、ガスピストルの引金を引いた。
 ガスは、またばさっと音がして、火星人の方へ飛んで行って、もうもうと広がった。
「もうよせ、もうよいよ。わ、は、は、は、は」
 と、十号ガスの中で、火星人は苦しそうに笑いながら叫んだ。

 十号ガスでまいらない火星人だ!
 これではせっかく蟻田博士の発明した十号ガスも、さっぱり威力がないのだとわかると、先生はがっかりしてしまった。
「おい新田、お前はひどいことをするじゃないか」
 と、ガスの中から、火星人はおかしそうに言った。その声を聞いて、先生はおやっと思った。その声は、たしかに聞きぼおえがある!
「はてな?」
 と、先生は言った。
「はてなも何もないよ。わしじゃないか」
 と、黄いろいガスの中から出て来たのは、外ならぬ蟻田博士の顔だった。
「ああ、博士。やっぱり博士だったのですか」
「そうだ、わしだよ」
「でも、わたしは、たしかに火星人の姿を見かけたのですが……」
「わははは、まだまじめくさって、そんなことを言っているのか。あれはわしじゃよ。火星人の姿をしていただけじゃ。ほら、ここに衣裳があるのだ」
 と、博士は、黒いマントや黒い帽子を手でさし上げた。
「どうしたのですか、博士。なぜ火星人の姿などをなさるのですか」
「お前もずいぶん血のめぐりの悪い男だなあ。火星兵団のそばへいくには、こっちもやはり火星人の姿をしていかなくちゃ、向こうはゆだんをしないではないか」
「なるほど」
「さあ、お前も早くこの衣裳をつけて、火星人に化けるのだ。ほら、ここにある」
 と、博士は別の衣裳を先生の方にさし出した。
「ああ、そうでしたか。いや、よくわかりました。これはどうも、わたしがのぼせ上っていて大失敗をしました。あははは」
 と、先生は師の前で頭をかいたことであった。
 博士と新田先生とは、穴から外へ出た。外は、まっくらであった。
「おい、新田。ちょうどいい。いっしょに下の方へ下りていってみよう。赤羽橋あたりへ出れば、火星人に出会うかも知れない」
「はい」
 先生は、博士と並んで歩き出した。月が空にかかっていて、二人の影を地上にはっきりうつした。
 また別の方からは、モロー彗星が強い光を放って、二人に別の影をつけていた。先生は、火星人そっくりの自分の姿を見て、苦笑いをした。


   54[#「54」は縦中横] 危機せまる


 ガスピストルを持っての初試験だ。
 蟻田博士と新田先生とは、火星兵団の者そっくりの姿をして、深夜の町をそろそろと赤羽橋の方へ歩いていった。
 町は、死んだように静かであった。
「博士、町は、たいへん静かですよ。この様子では、火星人は、引上げていったのかも知れません」
「そうだなあ、ちと静かすぎるのう」
 博士と先生とは、そんなことを言いながら芝公園の横をぬけ、電灯がぽつんとついている赤羽橋の方へ足を向けたのであった。
 その時、とつぜん、奇妙な声を二人は聞いた。声の方角は芝の山内だ。
 何を叫んでいるのかわからないが、たしかに何か重大なことが起ったらしく、金切声をあげている。それは一人や二人ではなく、かなりの人数だった。しかし人間の声かどうか、それがはっきりしないほど怪しいひびきを持っていた。
「おお、あの騒ぎは、たしかに火星兵団の者と人間とが、衝突したんだ。さあ、いって見よう」
 博士は、先生をうながして、赤羽橋を目の前に左へ曲り、芝公園の深い森の中へはいっていった。博士は、老人とも見えない元気であった。
 森の中をしばらく走っていくと、果して森の中の幅の広い自動車路の上で、入乱れて盛に格闘している一団のあるのを見つけた。
「あそこだ。おい、新田、そっとあそこへ近づくのだ。ガスピストルは、わしがうつまではお前もうってはならないぞ」
「はい、承知しました」
 二人がそっと近づくと、格闘している一団というのは、一人の火星人と、こっちの警官隊とであった。火星人を真中にして、警官隊はそのまわりを取巻いている。
 形においては、火星人を、警官隊が取巻いているのであったけれど、火星人の勢いはものすごく、警官隊は、むしろじりじりと押されていた。
「……この上は皆で、こいつにとびつくのだ。失敗したら、次は体あたりだ。とびついたら放すな」
 と、先頭に立ってさけんでいる声に、新田先生は聞きおぼえがあった。
「おい、いいか。突撃用意! 一、二、三! 突込め!」
 号令一下、わあっと、警官隊は剣や棒をふりかざして、火星人をめがけてうちこんでいった。
 ぷくぷく、ぷくぷく。
 火星人は妙なうなり声をあげて、一歩うしろへさがる。そこへ警官隊は、どっと、とびこんでいったのだ。
 それがはじまりで、あとは、ものすごい格闘がはじまった。あっと言う間に、警官の一人は、空中たかくほうり上げられた。他の一人は立木に、いやと言うほどたたきつけられた。勇敢にも火星人にとびついていった警官たちは、ことごとく火星人のために、あべこべにやっつけられてしまった。全く、おどろくべき火星人の大力であった。
 火星人の大力! それは警官隊もよく知っていたのだ。しかし警官隊は、市民たち
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