そこで、これまでのことを思い出しながら、
「わしとて、お前と同じ地球の上で生まれた人間であることに変りはない。だから地球人類が栄えるように、ねがうことについても人後に落ちない。しかし、今までそのことを誰にも話をすることが出来なかったのだ。なぜかと言うのに、火星人は絶えずわしの身のまわりに、目には見えないが、きびしい監視の網をはっているのだ。火星人は、わしが何か言えば、かならずそれを聞いてしまっている。だから、うっかりしたことは言えない」
「博士、それは、ほんとうですか。私は、博士のおっしゃる火星のスパイを、見たことがありませんが……」
「今も言うとおり、お前などの目には見えないのだ。わしにも見えない。しかし、わしはそれを知っている。火星人は、わしの声の特徴をよくしらべている。わしが声を出すと、非常に精巧な検音受信機で、わしのしゃべることを向こうで録音してしまうらしい。何しろ火星人の智力と来たら、人間よりもすぐれているのだから、始末がわるい。わしは火星人に、自分のしゃべることをけっして聞かれないために、苦心の結果、この防音室をつくった」
 と、博士はまわりのかべを指さしながら、
「これだけ厚い金属のかべでとりかこみ、そうして、音も電気も磁気も、それから放射能も全然さえぎるような仕掛をつけてある。だから、多分この中では、何をしゃべり、何を考えても、火星人に知れることはないだろう」
 聞けば聞くほど、火星人の智力というものはおそろしい。
「何しろ、わしがこの前、火星からこっちへかえった当時から、火星人はわしの身のまわりを大警戒しているのだ。それはつまり、わしが火星の秘密を地球人類につたえて、火星を攻める準備をするのじゃないかと、うたがっているのだ。しかし正直な話が、地球人はとても火星人をうち破る智力を持っていない」
 博士は残念そうに言った。
「だが、わしは火星兵団のことについては、いち早く地球人に知らせておいた。地球人は、それに発憤して、何か新発明の兵器でもつくるかしらんと思ったが、やっぱり智力が足りなかった。わしは、どうせそんなことじゃろうと思い、火星人には、絶対に気がつかれないように注意を払いつつ、或る研究をつづけていたのだ。その研究は、やっと完成した。これさえ使えば、火星兵団をうち破ることはそうむずかしいことではないと思う。そこでわしは、お前だけに、ほんとうのことを、うちあける気になったのだ。これまで、お前にも、わざとつらい目に合わせて気の毒だった。今こそわしは、全力をあげて火星兵団とたたかうぞ」
「おお、博士!……」
 新田先生は、意外また大意外の博士の話を聞いて、喜びのあまり、後の言葉が出なかった。
 蟻田博士の様子が、すっかり変ってしまった。
 博士は、今まで怪しい人物だとばかり思っていたが、本心を明かせば、実にえらい人物であった。博士は、ほんとうに地球人類のことをしんぱいし、そうして火星人を追いはらうことを研究していたのだ。
「博士。今度みごとに出来あがった博士の或る研究とは、どんなものですか。ぜひ、私にも教えて下さい」
 と、新田先生が言えば、博士はひげの中から口をもぐもぐと動かして、
「その研究のことは、ぜったい秘密にしておかなければならないのだが、ここだけの話として、お前にも話をしておこう」
 と、博士は先生のそばに、すり寄って、
「いいかね。わしは火星人の着ている殻《から》をうちやぶる毒ガスを発明したのだ。この毒ガスを十号ガスと名附けた。十号ガスを火星人に浴びせかけると、火星人が着ているあのかたい殻が、見る見る中に蒸発して、影も形もなくなってしまうのだ」
 それが十号ガスの偉力であった。たいへんな力を持った毒ガスである。新田先生はこれを聞いて舌を巻いた。
「十号ガスというのですか。なかなかすごいものですねえ。その十号ガスのため、火星人の殻が蒸発して、なくなってしまうと、それから火星人はどうなります」
「どうなると言うのか。それはわかっているではないか。火星人は、はだかになってしまう。地球の上で、火星人がはだかになれば、彼等は、すぐに死んでしまわにゃならん。なぜって、地球の上では大気の圧力が強すぎて、火星人の体はもたないのだ。火星人の体を、地球の強い圧力の大気から守るために、火星人は殻をつけているのだからねえ。それを取られりゃ、一たまりもなく、火星人は死んでしまうはずじゃ」
 十号ガスのすばらしい力!
 蟻田博士は、たいへんなものを発明したものだ。これなら火星人は、かなり苦戦に陥るであろう。
「全く、驚きました。何というりっぱな発明でしょう。怪人丸木が、この十号ガスをあびてふうふうするところを、今から想像すると、とても嬉しいですな」
 新田先生は、嬉しさのあまり、子供のように手を叩いたり笑ったり。
 それを見ていた博士も、すこぶる満足らしかったが、
「そこで、新田。わしはこれからしばらくお前にもあわないよ」
 と、博士は、とつぜん妙なことを言いだした。
「えっ、私にあわないとおっしゃると……。博士はどこへ行かれるのですか」
 先生は意外に思った。
「わしは、これからひとりで閉籠《とじこも》って、十号ガスをうんとつくらにゃならんのじゃ。火星兵団をやっつけるには、十号ガスをよほど多量にもっていなければならんのでのう」
 博士は、研究を完成した十号ガスを、これから製造にかかるというのだ。
「博士、私にお手つだいをさせて下さい」
「いや、それは困る。これはわしひとりが、たましいをうちこんで、作らんことには、いいものが出来ないのだ。誰かがそばにいると、気が散っていいものが出来ない」
「しかし博士、地球最期の日は、もうあと一週間そこそこですよ。十号ガスの製造に、あまり長く日がかかると、もう間にあいませんよ」
「それは大丈夫だ。あと三日あればいいのだ。じゃ、あとを頼んでおくよ」
「ああ博士、どこへ行かれるのですか」
 博士は、それには答えず、出て行った。


   52[#「52」は縦中横] 矢《や》ヶ|島《しま》天文台


 日毎夜毎《ひごとよごと》に、モロー彗星《すいせい》のすがたは怪しさを加えていった。
 今では、彗星の大きさは月をはるかにしのいでしまった。空を見上げると、まるで大きな光る飛行船を天に張りつけたようであった。
 モロー彗星の距離は、地球から月までの距離の何十倍ぐらいかのところまで近づいたのであった。あのすばらしい速さでもって、モロー彗星は間もなく月の側を通り越し、地球の正面へどうんとぶっつかるはずだった。
 人々は、もう殆ど全部が、おかしくなってしまった。もうあと七日足らずの生命だというので、変な遊びに熱中しているあさましい人間が町にあふれていた。そうかと思うと、中にはせっせと働いている者もあった。庭に一生けんめいに朝顔の種をまいている者があったり、町から投売の安い品物を買って来て、一生けんめいに納屋《なや》へしまいこんでいる者もあった。彼らはたいへん落着いて働いているようでありながら、その実は、やっぱりおかしくなっていたのだ。なぜと言って、朝顔の種をまいてみても、その花が咲くのは夏時分になる。夏までこの地球がもてばいいが、あと数日で崩壊してしまうのだから、彼のやっていることはどうもおかしい。安い品物を買集めている人にしても、やはり同じように、気がどうかしているのであった。
 たまに、まじめなことを言出す人があっても、誰もそれを本気で耳にとめる者はいなかった。モロー彗星は日毎夜毎にぐんぐんと大きくなり、それを見ていると、誰に説明を受けなくても、地球と正面衝突するであろうということが、誰にもわかりすぎるほど、わかったのである。
(もはや、さけることの出来ない悲しい運命だ!)
 誰も彼も、そう信じていた。
 天文台では、一日二十四時間、近づくモロー彗星の観測と記録とに、かかりきりであった。
 台員の数は、前に比べると五分の一に減ってしまった。非常に熱心な台員だけが、やがて自分の死も忘れ、それから今とっている記録もやがて灰になることさえ、あまり気にとめないで、手不足の中に観測をつづけていたのであった。
 天文台はじまって以来、これほどすばらしい観測材料がころがりこんだことは、前例がなかった。
 各国の天文台におけるモロー彗星観測の結果の中で、重要なものや、ひどく興味のあるものは、ラジオやテレビジョンでもって、ただちに天文台の名とともに放送された。
 しかし、その放送を聞いている者は、ほとんどなかった。どこの天文台でも台員は放送するばかりで、他人の放送を聞こうともしなかったし、また人手が足りないため聞いているひまもなかった。かえって、天文学者でもない素人の方が熱心に聞いていたのであった。その素人も、さっき言ったように、そのほとんど全部が気の毒なおかしくなった人であったわけだが……。
「矢ヶ島天文台発表」
 ぼそぼそした声で放送している者があった。
「矢ヶ島天文台? 聞いたことのない天文台だなあ」
 この放送を聞いていた病人が、にやり、気味の悪い笑いをうかべた。
「わが天文台は、一昨日から月に関する天文放送を始めていますから、今日以後の放送を、よく御注意下さい」
「なんじゃ、この放送者は、どうも頭がおかしいぞ。気がへんになったのじゃないかな」
 と、放送を聞いている病人が言った。モロー彗星のことで、世界は、ひっくりかえるような騒ぎをやっているのに、ひとり矢ヶ島天文台からは、月に関する観測を放送すると言うのであるから……。
 だが、月の南中の早い遅いは、果してばかばかしいことであろうか。
 矢ヶ島天文台では、それについて、こんなことを放送した。
「皆さん、月が怪しい運動を始めていますから、どうか御注意下さい。月がどうかしているのです。今は、たった百分の一秒とか、百分の二秒とかですが、この先、この異常運動がどういう風に変って行くか、注意していただきたいのです。もっと申し上げたいのですが、今は、このくらいにしておきます」
 矢ヶ島天文台は、たった百分の一秒の程度ながら、月が怪しい運動をしているから、注意をしてくれというのだ。
(モロー彗星・地球・火星と、この三つのものを考えなければならない地球人類にとって、この上、月のことまで心配させられてたまるものか)
 と、あざわらう人もあれば、おこる人もあった。
 人々のそういう声は、矢ヶ島天文台にも聞えぬはずはなかったが、この天文台長たる素人研究家の矢ヶ島君は、悪口には平気の平左で、月のことを熱心に研究して、人々の注意をうながしているのであった。
 また或る時、矢ヶ島天文台は、こんなことを言出した。
「皆さん、いよいよ月に注意していただきとうございます。月は、一日のうちに二度、異常運動をしていることがわかりました。そうして、異常運動はごくわずかですが、はげしくなって行くようです。明晩の月に特にご注意下さい。望遠鏡で月の面をごらん下さい。その時、月の面に、何か変ったことがあらわれるかも知れません。どうぞ、明晩の月を御注意下さい」
 矢ヶ島天文台は、すこぶる内気で、人々にこう呼びかけるのであった。
 明晩の月? 果してどういう月が眺められたであろうか。
 いくら矢ヶ島天文台の台長がおかしいにしろ、こう度々《たびたび》月のことばかりを言出すものだから、一度、その放送を聞いて気になり出した人は、そのあとも矢ヶ島天文台の放送を聞かないではおられなくなった。
 さて『明晩の月』と、昨日の放送で注意のあった月が、いよいよ夕刻から空に出たのであった。もういよいよ満月に近い明かるい月だった。
 空は雲もなかった。いやなモロー彗星の光の尾が、水平線から斜にぼうっと明かるく空を染めているが、これさえなければ、今宵は静かな美しい月の出よと、人々は楽しんだにちがいない。とにかく、その月が上ったのである。
 気にしていた連中は窓に寄ったり、屋根に上ったり、または望遠鏡を持出して、その月の面を眺めたのであった。
「なあんだ。別に、あのお月さまは少しもちがっていないじゃないか」
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