う」
 課長は、よく、こんな風に自席を立ち、後に残った机の前の客を、知れないように写真にとらせることがよくあった。つまり、その時たずねて来た人の顔を、後のために、ちゃんと残しておく必要があるような時には、よくやる手であった。警官は、またその写真かと思ったのである。
 課長は、衝立のかげから、自席の方を注意している。
 その時、警官が課長の耳の近くに口をよせ、早口で言った。
「あっ、課長。あの老人が変なことをやっていますよ。いいんですか」
「ああ、いいのだ」
「あっ、課長の机の上にある箱の中から、何か長いものをひっぱり出しましたよ。大丈夫ですか」
「うん、いいのだ」
 いいのだ、いいのだと言っているうちに、蟻田博士のからだは、課長の机を離れた。そうして、戸口の方へ、早足で、つつうっと歩いて行く。どうやら、博士は逃げるつもりらしい。
「いいんですか、課長。あの老人は太い奴ですよ。課長の机の上から、何か盗んで行きますが、いいのですか」

 蟻田博士は、うまうまと、青い色のむちのようなものを、大江山課長の机上から盗んでしまった。それは、課長が、千葉の天狗岩の附近から拾って来た貴重な証拠物であった。
 不思議なことに、課長は、博士がそれを盗むところを見ていて、何もしないのであった。わざわざ博士に盗ませたようなものであった。一体、どうしたんだろう。
 博士の姿は、もう室内に無かった。
「課長、追いかけて、あの老人の襟首をつかまえて、連れもどして来ましょうか」
「いや、それにはおよばない」
「じゃあ、追跡しましょうか」
「いや、それも必要ないよ」
 と言って、課長は、衝立のかげから、ゆったりと姿をあらわし、自席へ帰って行く。
「なんだか、さっぱりわけがわかりませんなあ。課長さえよければそれでいいんですが、みすみす、庁内の現行犯のどろぼうを逃してしまうなんて、一体どういうわけなんですか」
 課長は、別に、それに対して返事はしないで、
「おい、どうした。まだ、佐々《さっさ》は、帰って来ないのかね」
 と、佐々刑事のことをたずねた。
「佐々なら、もう、こっちへ帰って来るはずですが……」
 と、掛長が、席から立って来た。そうして課長に向かい、
「あの博士は、とうとうあれを持って行ったようですね」
 と言えば、課長は軽くうなずいた。
 そこへ、戸口が大きな音と共にあいて、佐々刑事がとびこんで来た。
「課長、帰って来ました。ところで、今、蟻田博士にすれちがったのですが、あの博士の様子が、いやにへんなんですがねえ」
「佐々。博士を追跡しろ。そうして、当分お前は博士を監視するんだ!」
 火星のボートが残して行ったと思われる、青い色のむちのようなものを、蟻田博士がさらって逃げた。大江山課長は、元気者の佐々刑事に、追跡して監視しろと命じた。
 佐々は、いまかけ上って来た階段を、またどかどかとかけ下りて、警視庁の玄関からとび出した。
 こっちは、課長のそばにいた当番の警官であった。佐々のとび出して行った戸口を、あきれたような顔で見送りながら、
「課長。佐々刑事は黙ってとび出しましたが、あれでいいんですか」
「何が?」
「つまり、博士の行方が、佐々刑事にわかっているでしょうか。博士はどこへ行ったか、もう姿は見えなくなっているはずです。どうも、あの佐々刑事と来たら、気が短く、早合点の名人ですからねえ」
「ああ、そのことか。そのことなら、彼のことだから何とかやるだろう」
 佐々は、玄関の外にとび出したが、博士の姿はもう見えなかった。
「しまった。どっちへ行ったのかしら」
 玄関を警戒していた同僚に、博士がどっちへ行ったかをたずねたが、誰も知らない。戸外をすかして見たが、街灯がほの明かるい路面には、夜更《よふけ》のこととて、行人の姿は見えなかった。
「しまった」
 刑事は、案にたがわず、博士の行方を見失って、弱ってしまった。
 が、彼は、突然手をうった。
「そうだ。なあんだ、わかった、わかった」
 刑事は、急に元気になって、自動車を呼んだ。
「どっちへやるのかね」
 と、運転台の同僚が聞いた。
「麻布だ。蟻田博士邸へ直行してくれたまえ」


   25[#「25」は縦中横] 去らぬ足音


 話は変って、ここは、蟻田博士邸の地下室の中だ。
 新田先生と千二少年とは、階段の下に閉じこめられて、どうしてよいか困ってしまった。誰がどうして階段の上の蓋を、しめてしまったのだろうか。それをいぶかる折しも、二人の頭上に、こつ、こつと重い足音が近づいた。誰もいないはずの部屋に、人の足音がする! では、博士が帰ってきたのか? それとも、別の人であろうか。新田先生と千二少年とは、声をのんで、じっと足音のする頭上を見上げた。
 こつ、こつ、こつ、こつ。
 怪しい足音は、なおも頭の上を歩き続けるのだった。もし二人が、地下階段から床にのぼれば、待っていましたとばかり、二人の首っ玉をおさえるつもりのように思われる。
「先生、誰でしょう? この上を、歩いているのは?」
 千二は、新田先生のそばにすり寄って、低い声でたずねた。
「さあ、誰だろうか。先生もさっきから考えているんだけれど、よくわからない。博士が帰って来たのかも知れないが、それにしては、あの足音が、あまり響きすぎる」
「足音が響き過ぎるというと、どんなことですか。足音が怪しいのですか」
 新田先生は、うなずいた。
「千二君。よく耳をすまして聞いていたまえ。博士は、老人だよ。そうして体もたいして大きくないのだ。そのような老人にしては、あの足音は、あまりにどしんどしんと響き過ぎるのだ。まるで、鉄でこしらえたロボットが、足を引きずって歩いているようではないかねえ」
 千二は、それを聞いて、にわかに、薄気味が悪くなった。まさか、ロボットが!
 新田先生と千二少年は、だんだん不安になって来た。
 せめてその足音が遠くなるようにと、心の中にいのっていたが、意地わるく、その重くるしい足音は、いつまでたっても、二人の頭上から去らなかった。
「私たちを、いつまでも、この地下室に閉じこめて置くつもりなのだよ」
 先生はそう言った。足音は、同じところを、こつこつと、ぐるぐるまわりしているのだった。
「先生、僕たちは、どうなるのでしょうか」
 千二は、心細くなって、思わず、先生にひしと抱きついた。
「こうなれば仕方がない。あっさりと、あやまるより外ないだろうね」
「つまり、ここから、上に聞えるように、大きな声であやまるのさ。博士の留守に、地下室へもぐりこんだことを、すなおに、あやまるんだよ」
「残念ですねえ」
 先生は決心した。そうするより外に、やり方はないと思った。自分一人だけならいいが、千二少年を、いつまでもこんな気味の悪いところにおくのは、かわいそうだと思ったのだ。
 そこで、先生は、階段を上までのぼった。そうして右手を上にのばして、蓋《ふた》の下から、どんどんと叩いた。
「あけて下さい。ここをあけて下さい」
 新田先生が、そう叫んだ時、頭上をこつこつと歩いていた足音は、にわかにぴたりととまった。
 だが、別に答えはなかった。
「早くここをあけて下さい」
 先生は、ふたたび、はげしく蓋を下から叩いた。すると、今度は、上から何かうなるような声が聞えた、と思つていると、階段上の蓋は、左右にぐうっとあきだした。
 蓋はあいたのだ。今こそ、外へ出られるようになった。
「さあ、おいで。千二君、早く……」
 と新田先生は、千二の手を取り、階段を上にかけ上った。さだめし、そこには博士が白い髭をぶるぶるふるわせ、大おこりにおこって、つっ立っていることだろうと思った。――ところが、それは思いちがいであったのだ。
「あっ、君は……」
 床の上におどり上った新田先生は、非常な驚きにぶっつかった。先生は、さっと体をひねると、自分のあとから出て来た千二を後にかばった。
「き、君は、何者だ! 生きているのか、死んでいるのか」
 いったい先生が目の前に見た相手というのは、何者であったろう。
 黒い長いマントを着た肩はばのいやに四角ばった怪物が、新田先生に向かい合っている。だが、その怪物には首がなかった。
 首のない長マントの怪人だ!
 さてこそ、新田先生は、「君は生きているのか、死んでいるのか」とたずねたのだ。
 その怪人は、獣のように低くうなるばかりで、口をきかなかった。
「向こうへ行け。ぐずぐずしていると許さないぞ」
 よわ味を見せてはたいへんと、新田先生は、はげしい声で相手を叱りつけた。
 が、その怪人は、べつに驚く様子もなかった。もっとも、首がないのだから、どんなことをしても顔色が見えないので、見当がつかない。
 先生は、千二の手を取って、怪人の前をすりぬけようとした。
 その時、首のない怪人は、黒いマントの下から、にゅうと腕を出した。そうして、あっという間に、千二の肩を、ぎゅっとつかんだ。おお一大事だ!
 蟻田博士邸の秘密室のまん中!
 とつぜん、新田先生と千二少年の前にあらわれたのは、首のない怪人! 先生が後に千二をかばうひまもなく、黒い長マントの怪人は、腕をのばして、千二の肩をむずとつかんだのである。さあ、たいへんなことになった。
 この怪人は、一体誰であろうか。
 あの自動車事故のあった崖下を、うろうろしていたあの怪人であった。そうして佐々刑事とたたかっている時、首をぽろんと落したその怪人であった。
 大江山捜査課長は、この怪人こそ、例の丸木であるにちがいないとにらんでいた。
 そのにらみに、まちがいはなかった。この怪人こそ丸木だったのである。
 一度は、千二をつれて銀座に案内させ、ボロンの壜をうばってにげた。二度目には、警視庁から出て来た千二を、日比谷公園のそばに待受けていて、むりやりに自動車に乗せてしまった。そうして、交通掛の警官においかけられたが、ついに麻布の坂においつめられ、進退ここにきわまった。この時、「この先に崖がある。危険!」という注意の札が目に入ったが、もうどうすることも出来なくて、とうとう自動車を断崖へ走らせ、あの恐しい自動車事故をひき起したのであった。
 その時、丸木は、不思議なことをやった。
 それは一体どういうことであるかというと、千二の生命をすくったことである。――自動車が、断崖を通り過ぎるその直前、丸木は自動車の扉をひらいて、千二を外につき落したのであった。千二の体は、蟻田博士邸の生垣のしげみの中に、もんどりうってころげこみ、そうして一命は助ったのであった。そうして丸木は?
 丸木は、そのまま自動車と共に崖下に落ちた。そうして不思議なことに、今もなおちゃんと生きているのだった。不思議だ。


   26[#「26」は縦中横] 格闘《かくとう》


 首のない丸木が、生きているのだ。今も新田先生と千二少年の前に、その丸木がうそぶいて立っているのだ。
 いや、それどころではない。千二少年は今、丸木のために肩をつかまれて動けなくなっているのだ。
「こら、怪物。その少年をはなせ。何という、かわいそうなことをするのか」
 新田先生は、相手をどなりつけた。
 だが怪人丸木は、いっかなそれを聞こうとはしない。少年の肩をつかんで、ぐいぐいと手もとにひきつける。千二は顔を真赤にして丸木と争っているが、かよわい少年の力で、どうしてかなうものか。
 そうして、ついに千二少年は、丸木の長マントの中にかくされてしまった。怪人は、かちほこるように、気味の悪いうなりごえを上げる。
「け、けしからん。もう君をゆるしておけないぞ」
 新田先生は、相手が強敵であることは知っていたが、こうなってはもうやむを得ない。全身の力をこめて、怪人丸木の胸にぶつかった。
 丸木はよろよろと、二、三歩後に退いた。だが、彼はたおれはしなかった。
 やりそんじたかと、新田先生は、もう一度後に下った後、どうんと怪物の胸につきあたった。
 今度は、大分こたえたようであった。丸木はうなりながら、四歩五歩と、後によろめいて、ついに壁ぎわにどうんと背中をつけてしまった。
 それは相当ひどい
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