はないか」
 新田先生は、目をぱちくりした。
 全く何もないのであった。
「不思議だ、不思議だ。これは不思議だ」
 先生は、あまりの意外さに、つづけて同じ言葉をはいた。
 どう考えても変である。博士があれほど注意を払って、大切にしている部屋であるにもかかわらず、床ばかりで、何物もおいてないというのは、腑に落ちかねる。
 もっとも、鼠色によごれた壁には、背の高い柱時計がかけてあった。しかもその柱時計は、なぜかわからないが、並べて二つかけてあった。
 どっちも、たいへん古めかしい飾りがついている、振子形の旧式時計であった。
 振子は、どっちの時計の振子も、とまっていた。つまりうごかない二つの柱時計が、このがらんとした秘密室の留守番であったのである。
「まてよ、この二つの柱時計が、値打のある宝物なんかではなかろうか」
 新田先生は、柱時計がかかっているその下まで出かけていって、それをていねいに何度もよく見たのであった。
 たしかに古くて、時代がかったものであったが、作りもそうりっぱなものではない。むしろ安時計と見てもいいものだ。
「変だなあ。なんとなくわけがありそうな時計だけれど、どうもわけがわからない」
 そう言って、先生はなおも柱時計の文字盤を、じっと見すえたのであった。
 まるで、二つの柱時計が、留守番をしているような、がらんとした空部屋だ。これが、蟻田博士が、厳重に鍵をかけておく、秘密の部屋なのだ。
 しかし、こんながらんとした空部屋の、どこが秘密にしておく必要があるのであろう。空部屋ならば、扉に鍵をかけておいても、或はまた、鍵をかけないで、あけ放しにしておいても、同じことではないか。
 新田先生は、部屋のまん中に立って、あきれ顔で、部屋中をいくども見まわしたのであった。
「どうも、おかしい。しかし、博士が鍵をかけておく以上、この部屋には、何か重大な秘密のものがあるにちがいない」
 新田先生は、そのように判断した。
「でも、見たところ、あやしいのはこの二つの柱時計だけだが、一体こんな柱時計が、何の役をしているのであろうか」
 先生は、また柱時計のそばへいって、つくづくと見なおしたのであった。
 その柱時計の針は、どっちもとまっていた。また、時計の上には、ほこりがたまっていた。
「ふうむ、この時計は、近頃、ずっととまっていたんだな」
 新田先生は、柱時計の振子に、くものすがかかっているのを見て、そう言った。
 するといよいよわからない。博士は、たびたびこの部屋に出入しているのだ。きょうもたしか、この部屋にはいったことがあった。
 博士は、この時計が示している時刻を見るために、この部屋へ出入するのではあるまいかと思ったが、時計は振子がずっととまっているのであるから、見ても何にもならないはずであった。すると、ますますわからなくなる。この部屋の秘密は、一体どこにあるのであろうか。新田先生は、途方にくれてしまった。
「どうも、わからない!」
 新田先生は、蟻田博士の秘密にしている空室のまんなかにしゃがんだまま、とけないこの部屋の謎を、じっと考えこんだ。
 だが、先生は気が気ではない。警視庁へ出かけた博士が、いつ、ここへかえって来るか、知れないのだ。
 見つかれば、たいへんなことになる。博士にことわりなしに鍵を持出し、この秘密室にはいっているのだから、見つかれば、博士はどんなに怒り出すか知れない。その結果、せっかく新田先生が、博士の力を利用して、モロー彗星衝突によるわが地球人類の全滅を、何とかして食いとめたいと努力をしていることが、一切だめになる。
 先生は、腕ぐみをしてしゃがんだまま、しきりに頭をふったが、この部屋の謎は、一向にとけなかった。
 先生が、考えこんでから五、六分のちのことであったが、ふと先生は、あやしい物音を耳にした。
「おや、何の音だろうか、あれは……」
 先生は、けげんな顔で、聞耳をたてた。
 ごとん。――しばらくして、また、ごとん。
「ああ聞えた。あれは一体何の音だろうか。うむ、床下から聞えて来るようだ」
 先生は、足音をしのばせて、立ちあがった。どこかに、床下へはいる場所がありはしないかと、部屋の中を見まわしたが、何しろ、とっさのことでもあり、そんなものは見あたらなかった。
(どうしたら、床下が見えるだろうか?)
 先生は、考えた。
 ごとん。ごとん。
 又しても、怪音は床下から聞えて来る。
(そうだ。庭へ出て、外から床下をのぞいてみよう)
 先生は、そう決心すると、さらに足音をしのばせて、そっと部屋をたち出でた。


   18[#「18」は縦中横] 命びろい


 床下の怪音!
 新田先生は、その怪しい音こそ、蟻田博士の秘密室の謎をとくものであろうと思った。
 先生は、くらがりの庭を、足音をしのばせて、秘密室の外まわりをまわった。
(どこかに、入りこめる穴があったように思っていたが……)
 先生は、その建物の床下に、空気を通じるための穴があって、そこに鉄の格子がはまっていたことを思い出したのであった。それで先生は手さぐりで建物の外をさぐってまわった。気はいらいらするが、もしも相手が生き物だったら、たいへんだと、一生けんめいに、はやる心をおさえた。
 だが、一体何だろう、あの音は?
(あっ、穴だ!)
 先生の手が、穴にふれた。四角い窓のようにあいていた。
(おや、鉄格子が、はまっていたはずだが、外してしまってあるじゃないか」
 鉄格子は、なくなっていた。誰が外して持っていったのであろうか。
 窓のところから、すうと風が出て来るのが、はっきり感じられた。
 ごとん。
 またあの怪しい音がした。どうも人間がいるらしい。
 先生は考えた。どうしてやろうか、と。だが、ぐずぐずしていられないことはたしかであるから、思い切って、先生は床下に向かって声をかけた。
「誰だ、そこにいるのは?」
 ごとん――と、また音がしたけれど、へんじがない。
「そんなところにはいりこんでいては、困るじゃないか。用があるなら、こっちへ出て来たまえ」
 先生は、床下にひそんでいるのは、刑事かも知れないと思ったので、なるべく鄭重に言った。
 新田先生は、マッチを出して火をつけた。
「とにかく、こっちへ出て来たまえ」
 と、空気穴から声をかけた。
 すると、床下では、ごとんごとんとつづけざまに音がしたが、やがて何者かが、こっちへごそごそはい出して来る様子。
「いよいよ、おいでなすったな」
 と、新田先生は、体を建物の土台の方へよせて身を守りながら、また新しいマッチに火をつけた。
(もし、変な奴だったら、この空気穴から頭を出したとたんに、力一ぱい首をしめてやろう!)
 そう思って身がまえたとたん、近づいた床下の怪物は、
「先生、新田先生ではありませんか」
 と、意外な言葉を発したのであった。
 驚いたのは新田先生だ。下手をすれば、どうんとピストルのたまぐらい、こっちへ飛んで来るだろうと思っていたのに、意外も意外、その怪物は自分の名を呼んだのであった。
「だ、誰だ!」
 新田先生は、どなり返した。
「先生、やっぱり、新田先生だ。僕です、僕です」
 僕です、という声とともに、空気穴からかわいい少年の顔が、こっちをのぞいた。
「あっ」
 新田先生は、思いがけない驚きにあって、しばらくは口がきけなかった。
「先生、僕、千二ですよ。ああ新田先生だ。よかった、よかった」
 新田先生は、空気穴の方へ手をさしのばして、
「ああ、千二君だ。ほんとうに千二君だよ。どうして、こんなところへ……」
 と、言ってから気がつき、
「さあ、早く、こっちへ出て来たまえ!」
 空気穴から千二少年がはい出して来た。
「おお、千二君。よくまあ……」
「先生!」
 二人は、思わず抱きあって、涙にむせんだ。
「先生は、どうしてこんなところに、いらっしゃるんです」
「ああ、これには、わけがある。要するに、君を助けたいためと、もう一つは、もっと大きなものを助けたいためだ」
「もっと大きいものって何ですか」
「それはね――」
 と言いかけたが、先生は、あわてたようにあたりを見まわし、
「それは、話が長くなるから、いずれあとで、ゆっくりして上げるよ」
 と言って、それから改まった口調になって、
「私のことはともかくとして、千二君、君は一体どうしてこんなところへ? 警視庁を脱走したのじゃあるまいな」
「ああ、そのことですか。先生、心配しないでください。僕は、おひる前、もう帰ってよろしいというので、久しぶりで自由の身になれたんです」
「それはよかった。が、ほんとかね。じゃあ、なぜこんな床下にもぐりこんでいたんだい。許されて出たものなら、堂々と町を歩いていてもいいはずではないか。どうも、おかしいじゃないか」
 新田先生は、千二が、こんな床下にもぐりこんでいたのは、やはり心の中に、うすぐらいところがあるのではないかと、心配しているのだった。
「僕、うそなんかつきませんよ。じつは、僕、日比谷公園のそばで、丸木のため、むりやりに自動車に乗せられて、こっちへ連れて来られたんです」
「なに、丸木が?」
 と、新田先生は、驚いて言った。
 そこで千二は、日比谷公園のそばで、怪人丸木のため、むりやりに自動車にのせられたことや、丸木の自動車が交通違反をしたため、オートバイの警官に追いかけられ、とうとうこんな方角へ来てしまったことなどを話した。
「……すると、先生。僕は、おどろいてしまったんです。とつぜん自動車の行手に、『危険! この先に崖がある』という注意の札が見えたんです」
「ほう、ほう」
「危険の札が、立っているのに、丸木はそのまま、そこを突破したんです」
「ほう、らんぼうだね。それじゃ、自殺するようなものだ」
「そうです。僕は、もう死ぬことを覚悟しました。すると、そのとき丸木は、片手で運転台の扉をさっとあけました。そうして、僕の体を、力一ぱい、車の外へどんと突きとばしたんです」
「なるほど、なるほど」
「僕は、思わず目を閉じました。頭をぶっつけては即死だと思ったので、両腕で、自分の頭を抱えるようにしたことまで覚えています。それから後のことは、なんにも知りません。丸木がどうしたのか、自動車がどうなったのか」
「それで……」
「気がついてみると、僕の頬ぺたが、ちくちく痛いのです。それから、だんだんと正気にもどってみますと、僕は、さつき[#「さつき」に傍点]という木がありますね。あのさつき[#「さつき」に傍点]の繁みの中にころがっていたんです」
「ふん、さつき[#「さつき」に傍点]というと、この屋敷にも、たくさんあるが……」
「そうなんです。そのさつき[#「さつき」に傍点]は、この屋敷のものだったんです。僕の落っこったところは、屋敷の外まわりに芝の植っている堤がありますね。あの堤を越して、下にごろごろと落ちて、気を失っていたんです」
 聞けば聞くほど、あぶない命のせとぎわであった。よくぞ千二少年は、一命が助かったものであった。
 堤下の、さつき[#「さつき」に傍点]の繁みの中に、気を失っていたので、あとをおいかけていた警官は、そばまで来ながら、千二がいることには、気がつかなかったものらしい。
 いや、警官たちは、それよりも、崖下に落ちていった自動車のことばかりに、気をうばわれていたのかも知れない。自動車は、怪人丸木をのせたまま、崖から下へ落ちていった。そうして、めちゃめちゃにこわれてしまい、やがて車体は火に包まれてしまったのだ。誰も彼も、この方に注意をうばわれたのは、もっともだった。
「ふうん、全く、驚いた話だ」
 と、新田先生は、大きな息をついて、千二少年の命びろいを喜び、
「その運転手は、怪人丸木にちがいないかね」
「丸木ですよ。僕は、丸木の顔をよく知っていますから、見ちがえるようなことはありません」
「ふうむ、やっぱり、ほんとの怪人丸木か。あいつは、もう、こっちにはいないだろうと思っていたのに」
「先生、丸木は、僕をさらって、何をするつもりだったんでしょうか」
「さあ、それも、私の思いちがいだった。
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