しい。
「丸木さん、一体どうしたの」
千二は、丸木のところへやって来て、わけをたずねた。
丸木は、いかめしい姿に似合わず、ひどくあわてている。その様子が、ますますはげしくなった。
「おい千二。お前、金を持っていないか」
「僕? 僕は、お金なんかすこしも持っていない。なにしろ、魚をとりにいくために家を出かけたので、お金なんか一銭も持っていないですよ」
「そうか。それは、どうも困った」
「丸木さんは、お金を持っていないの。なくしたんですか」
「いや、お金のことは知っていたが、ついそれを用意することを忘れた。そうだ、買物をする時には、お金がいるんだったなあ。ああ、大失敗だ」
丸木は、ひとりでさわいでいる。
「じゃあ、ボロンを買うのは中止ですね」
「それは困る。どうしても、ボロンを買っていかなければ、困ることがあるのだ」
丸木は、今はもう自分に代って、千二に用事をしてもらっていることが、がまん出来なくなった。彼はいきなり薬剤師の白い服をつかまえ、
「ねえ君、金はあとでとどけるから、ボロンを渡してくれたまえ」
薬剤師はおどろいた。いきなりお客さんに、自分の服をひっぱられたのだから。
「あっ、そう乱暴しちゃ服がやぶれますよ。はなして下さい」
「ぜひ、ぜひボロンをたのむ」
丸木は、必死であった。
「いや、いけません」
年のわかい薬剤師はすこし怒っているらしく、きっぱり丸木のたのみをしりぞけた。
「そう言わないで。あとから君にも、たっぷりお礼をする」
「いや、だめです。お金を持って来なければ、ボロンでも何でもお渡し出来ません」
「どうしても、だめか」
と、丸木はうらめしそうに、薬剤師をにらみつけた。
「お金を持って来ない人に、どんどん薬を上げていたのでは、商売になりませんや。じょうだんじゃありませんよ」
と、若い薬剤師は、丸木にからかわれたとでも思ったのか、本気になって、怒っている。
「ふふん。どうしてもだめか」
丸木は、あらあらしい息で、またうなった。全く気味のわるい人物である。
「ああ金! 金さえ持って来れば、ボロンを売ってくれるんだな」
「もちろんですよ。たった六円九十銭ぐらいのお金に、おこまりになるような方とも見えません。じょうだんはおよしになって下さいよ。本気のお買物なら、もう午後九時も近くなりましたから、早くお願いいたします」
「金は、今ここに持っていないのだ。だが、すぐあとから持って来る。金を持って来れば、かならずボロンの大壜を三つ渡してくれるね」
「そんなに、くどくおっしゃって下さらなくとも、大丈夫です。かならずお渡しいたします」
「きっとですぞ。きっとだ! もしそれをまちがえたら……」
と言いかけて、丸木は、後の言葉をのみこみ、
「いや、すぐにお金を持って来る。待っていてくれたまえ」
おし問答のはて、丸木は薬屋の店をとび出した。
「おい千二。お金を手に入れなければならないんだ。さあ、お前も来い」
何を考えたか、丸木は、千二の手を取ってどんどん走りだした。
もう午後九時は近い。が、銀座通は、昼間のように、たいへんにぎやかであった。
丸木はその人込の中をわけていく。一体彼は、なぜお金を持っていないのであろうか。
丸木は、千二の手を引いたまま、夜の銀座通の人波をかきわけて、どんどん前へ歩いていく。
「丸木さん、どこへいくの」
千二が、心配になって聞くと、
「だまっておれ。声を出すと、ひねりころすぞ」
丸木は気がいらいらしているらしく、ひどい言葉で、千二をしかりつけた。千二は、丸木の冷たい手から、自分の手をはなそうと試みたが、丸木の手は、まるで大きな釘抜のように、千二の手をしめつけていて、はなすことが出来なかった。
丸木の歩調が、少しばかり遅くなった。彼はしきりに、いろいろなものを売っている店先に、目を向けている。そこには、美しく飾られた飾窓をのぞきこんでいる人もあれば、中で何か買物をしている人も見える。
「ああ、金だ、金だ」
丸木は、時々ひとりごとを言った。
そのうちに、丸木はぴったりと足を止めた。
「どうしたの、丸木さん」
「しっ、だまっておれと言うのに……」
この時丸木の目は、大きな鞄店の中で、りっぱなハンドバッグをたくさん前に並べ、どれを買おうかと、しきりに見ている一人の年の若い、洋装の女の上に釘づけになっていた。
やがて、その洋装の女は、中で一番りっぱな鰐革のハンドバッグを買った。その時かの女は、抱えていた白い蛇の革のハンドバッグの中から、たくさんの紙幣をつかみだして、店員に支払った。
「ああ金だ。たくさん金を持っている」
丸木は、またうなった、そうして、買物をして出ていくその洋装女の後姿をふりかえって、じっとみつめていたが、
「おい千二。ここで待っていてくれ」
と言った。
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