丸木は、千二に向かって、ここに待っていてくれと言うのだ。
「ああ、待っていますよ」
千二は、ひょっとすると、この間に、丸木の手から逃出すことが出来はしないかと思ったので、そう返事をした。
「すぐ、おれはここへ帰って来る」
そう言置いて、丸木は千二をはなすと、すたすた歩き出した。
(どこへいくのだろう?)
千二は、その時ふといやな気持になった。丸木は、さっき見とれていた、あの洋装女から、金を借りるつもりではないかと思ったのである。だしぬけにそんなことを頼まれては、さぞかし女の人は驚くだろう。
千二は、たいへん心配になった。
「おうい、丸木さん」
千二は、じっとしていられなくなって、丸木の後を追いかけた。
だが、丸木の姿は、いつの間にか人込のなかに吸いこまれて、どこへいったのか、わからなくなった。それでも千二は、あっちへいったり、こっちへかえったり、いやな胸さわぎをおさえつつ、しきりに丸木の姿をさがしもとめたのだった。しかし、それは、遂にむだに終った。
千二は、またいつの間にか、元の所へもどって来た。
「おい、千二」
だしぬけに呼ばれて、千二はびっくりした。それは丸木だった。いつの間にか、丸木が帰って来ていたのだった。
「ああ、丸木さん。どうしたの」
「どうしたって、ふふふふ」と、丸木は、へんな笑い方をして、「お金はこんなにある。さあ、これを持っていって、あの薬屋で、ボロンの大壜を三本買ってくれ」
そういう丸木の手には、たくさんの紙幣《さつ》が握られていた。不思議なことである。どこでこんな大金をつくったのか。
どこから手に入れたか、丸木の握っている大金!
「丸木さん。このお金は、どこから持って来たんですか」
千二は、息をはずませて、たずねた。
「ふふふふ。さっき、洋装の美しい女がいたのを、知らなかったかね。あの女が持っていた金だよ」
「はあ、そうですか。あの女の人が、丸木さんに貸してくれたというんですか」
「貸してくれたって。いや、ちがうよ。あの女の持っていたのを、こっちへもらって来たんだ。そんなことはどうでもいいじゃないか」
「すると、丸木さんは、あの女の人から、お金を取ったんですね。女の人は、きっと怒ったでしょう」
「ふん、怒ったかどうだか、ちょっとなぐりつけたら、おとなしくなって、地面に寝てしまったよ」
「えっ、そんなことをしたんですか。丸木さんはいけないなあ。女の人をいじめたりしちゃ、いけないですよ。もし、死んでしまったら、どうします」
「死ぬ? はははは、死ぬことが、そんなにたいへんな問題かね」
丸木は、悪いことをしたと思わないのか、声高く笑った。
(ああ、悪い奴だ。丸木さんは、とんでもない悪人だ!)
千二は、あきれてしまった。
「おい千二、何をぐずぐずしているのか。金が手にはいったんだから、すぐボロンを買うんだ。さあ、一しょにいってくれ」
丸木の冷たくてかたい手が、千二の手くびをにぎった。千二は、丸木にひきずられるようにして、人影もようやく少くなった銀座の通を走った。そうして、例の薬屋の店先まで来た。その時丸木は、驚きの声をあげた。
「おや、この家だと思ったが、店がしまっている」
薬屋の店は、もうしまっていた。そうであろう。商店法により、午後九時を過ぎると、店をしまう規則になっている。
丸木は、ぷんぷんおこりだした。
そうして、薬屋の戸を、われるようにどんどん叩いた。
「もしもし、さっきの店員の人。金を持って来たから、ボロンを売ってくれたまえ」
店の中では、人の話しごえが聞えるが、だれも丸木にこたえる者がなかった。
「もしもし、さっき君は、金を持って来れば売るとやくそくしたじゃないか。さあ、ボロンを売ってくれたまえ」
すると店内から、ばかにしたようなこえで返事があった。
「もう九時を過ぎましたから、商店法の規則で、品物はうれません。明日《あした》にして下さい」
これを聞いて、丸木は、獣のようにおこりだした。
「おいおい、金を持って来れば、売ると言ったのに、それじゃあ話が違う。ぐずぐず言わないで、この戸をあけろ」
「そりゃ売ると言いましたが、今晩のうちに売るとは言わなかったですよ。商店法なんですから、なんといってもだめです」
「なにっ、どうしても売らないと言うのか。今になって売らないと言うなら、この戸を叩きこわして、はいるぞ」
「そんな乱暴なことをやっちゃ、だめですよ。しかしこの戸は、あなたのような乱暴な人をはいらせないために、かなり丈夫に出来ているんです。お気の毒さまですが、あなたの手が痛いだけですよ」
店員もなかなか負けていない。丸木は、それを聞くと、益々たけりだした。
「これだけ言っても、言うことをきかないなら、わしは、好きなとおりにやる。お前などを相手にせんぞ!」
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