あのたまらないにおい――そのにおいを、もすこし上等にして、その中へ海草のにおいをまぜると、いま千二がかいでいる異様なにおいに近いものになる。けれども、牛小屋と海草のにおいを合わせただけではない。そのうえに、もう一つ、なんだかにおったことのない、妙にぴりぴりしたにおいが交っていたのである。なんとなくうまそうでいて、そしてむかむかするにおいだ。
 におったことのない妙なにおい!
 それも道理であった。これこそ、火星の生物の汗のにおいであったのだ。火星の生物の汗のにおいが、その部屋一ぱいに、みちていたのである。
 はじめ千二は、ちょっといいにおいだと思ったけれど、間もなく胸がむかむかしてきた。それほどいやらしいにおいであった。
 そのとき、ぎーぃと音がして、誰かが近づいた気配《けはい》である。
 千二は、ぱっと眼をひらいた。それまで千二は、正気にかえったとはいうものの、ぐったりして眼をつぶって、ただ鼻ににおいだけを感じていたのだった。
「おい君、いま元気にしてやるぜ」
 うす桃色の湯気の中から、とつぜん、この言葉が聞えたのである。
「えっ」
 千二少年は、その方を見た。
 湯気は、もうもうと渦を巻いていた。その向こうに、何者か立っている。ぼんやりと、頭のかっこうのようなまるいものが見えた。
「だ、誰?」
 千二は、まるい頭のようなものに、声をかけた。
「誰でもない。おれだよ」
 湯気の中から、ぬっと姿をあらわした者があった。
 頭には、つばの広い、黒い中折帽子をかぶり、そうして同じ黒い色の長い外套《がいとう》を、引きずるように着た大男であった。
 黒い色のレンズのはまった大きな眼鏡をかけているので、人相のところは、はっきりしない。
 その眼鏡の上には、太い眉毛がのぞいている。
 鼻は、まるで作り物のように、すべっこくて、きちんと三角形をなして、とがっている
 唇は、肉がうすくて、たいへん横に長い。
 あごのあたりは、よく見えない。外套の襟《えり》を立てて、その中に頬から下を、ふかく埋めているのである。
 胴中《どうなか》は、さっきも言ったように、たいへんふといのであるが、両方の腕は、外套の上からではあるが、たいへん細くて長い。だから胴中と腕とが、妙につりあわない。全く、千二少年の知らないおじさんだった。
 千二は、この黒いものずくめの、かっこうの悪いおじさんを一目みた時に、すでにもう、たいへんいやな気持になった。遠慮なく言うと、蜘蛛《くも》の化物《ばけもの》みたいな人間なんだから……
「誰です。おじさんは!」
「おじさん? おじさんて、何のことかね」
「おじさんというのは、あんたのことをさして言ったんですよ」
 おじさんという言葉を知らないなんて、変な大人《おとな》である。千二は、いよいようす気味が悪くなって、立上ろうとした。
 が、立上ることは出来なかった。よく見ると、彼の下半身は、何かで縛られているらしく、立とうとしても、体がいうことを聞かないのであった。
「ああ、こらこら。じっと寝ているがいい。今おれが、お前を元気にしてやるよ」
 と、蜘蛛の化物みたいな、その黒いものずくめの大男が言った。
「もう、たくさんです。それよりも、あんたは誰なのか、それを教えて下さい。そうして僕が、どうしてこんなところに来ているのだか、それを教えて下さい」
「はははは。そんなに気になるかね。ほんとうのことを言って聞かせてもいいが、お前がおどろくだろうから、まあ、やめにしよう」
「そんなことを言わないで、教えて下さいな」
「そうか。きっとおどろかない約束をするなら、教えてやってもいい」
 その蜘蛛の化物みたいな大男は、ものを言うたびに、唇を境にして、鼻の下からあごまでの間が、障子紙のように、ぶるぶるふるえるのだった。どうも只者ではない。
「僕、おどろいたりしませんよ」
 千二少年は、心の中に決心した。どんなことがあっても、おどろくまいと。
「そうか。きっとおどろかないな」
 と、その大男は念をおして、
「では教えてやろう。いいかね。お前が今こうしているところは、火星のボートの中だ。そうしてこの中には、火星の生物が、十四、五体も乗組んでいるのだ」
「えっ、火星のボートの中ですって」
「なんだ。やっぱりおどろくじゃないか」
 火星のボートの中! これがおどろかないでおられようか。
 火星のボートの中に、千二はいたのである。何時《いつ》の間に、火星のボートの中にはいったのか、さっぱりわからない。
「すると、僕の体は、もう地球から離れてしまったのですね」
「ううっ、まあそのへんのことは、何とでも考えたがよかろう」
 蜘蛛の化物みたいな大男は、ちょっとあわてたらしかったが、ともかく返事はした。
 そうか、火星のボートの中か。道理で変なにおいがすると思った。こんな
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