見えるのは、十メートルほど下に淀んでいる黒い水面ばかりであった。しかし彼は、そのままの姿勢で、しばらくはこの黒い水面をじっと見つめていた。
 そのうちに、彼はとつぜん身近に、ひゅうひゅうという妙な音を聞いた。
 すわ!
 千二は、びっくりして、その場にぱっと身を起した。
 とつぜん耳にしたところの怪音。ひゅうひゅう、ひゅうひゅうと、鞭《むち》かなんかを振るような音だ。その音なら、さっきも、彼はたしかに自分の耳で聞いたのである。あのうす桃色の怪物体が、天狗岩のうえに下りて来たあの時に。
 ひゅうん。
 いきなり、千二の耳もとに、怪音が聞えた。
「あ、痛っ」
 何者かが、ふいに、千二の持っていた懐中電灯を叩きおとした。
「だ、誰だ」
 千二は、身近くに、誰かがいるなどとは、想像しなかった。だからそれだけに驚きはひどかった。――立直ろうとする時、又もや、
 ひゅうん。
 と唸りごえが聞えたかとおもうと、千二少年は背中を、どすんと強くなぐられた。
「ううむ」
 つづけざまの、不意打の襲撃だった。何も見えないまっくら闇の中で、おもいがけない見当から、なぐられたり、つきとばされたり、ひどい目にあった。しかも相手は、何者だか、まるっきりわからない。千二は、はあはあ息をついていたが、そのうちに何者かが、すぐ目の前をとおりすぎるようなけはいを感じたので、思いきって、
「やっ」
 とさけぶと、ここぞと思う見当に向かって、とびついた。
 すると、はたして手ごたえがあった。
「うぬ、もうにがさないぞ」
 千二は、どなった。そうして、しっかりとおさえつけた。その相手というのは、何者であったろうか。とにかくそれは、手ざわりだけでは、苔がはえた土管のような気がした。生き物のようではなかった。
 まったく妙な手ざわりである。苔がはえた土管のように、上はぬるぬるしていて、しかもたいへん固いのであった。それが、千二が闇の中でとらえた相手であった。その形はくらがりのことで、はっきり見えない。
「これは、間違えて、何か別のものをつかまえたのではないかしらん」
 とすこしの間、千二は、そう思った。
 しかし、千二のつかまえている土管みたいな怪物は、彼のおさえつけている下から、はねかえそうとしているらしく、しきりにもくもくと動いたし、また、しばらくたって、
 ひゅう、ひゅう。ひゅう、ひゅう。
 と、しのびやかな鳴き声を立てたので、今おさえているのが、例の怪物であることに、決して間違がないと知った。
 だが、こうしておさえつけていても、千二は、決していい気持ではなかった。とびつく前は、相手は人間か、またはこの湖によく下りる鳥だろうと思っていた。ところが、それとはまったく手ざわりの違った、ぬれ土管《どかん》の怪物だったのである。でも後から考えると、彼はよくまあ勇敢に、組附いたりしたものだと感心する。これが闇夜の出来事ではなく、昼間の出来事で、相手の姿がはっきり見えていたとしたら、彼は決してとびつきはしなかったろう。いやその反対で、きっと顔色をかえて、逃出したことであろう。
「さあ、ずるい奴め。土管の中からひっぱり出してやるぞ」
 千二は、本気でそう言って、相手の体をなでまわしたが、さあたいへん、土管だと思ったのに、その先は鉄甲のように、まるい。
「ぷく、ぷく、ぷく」
 とたんに、その怪物は、うなった。そうして千二の体を、細い紐みたいなもので、ぎゅっとしめつけた。その力の強いことといったら……。
「うむ、苦しい」
 千二少年は、遂にたえきれなくなって、悲鳴をあげた。怪物は、妙な手ざわりの紐で、千二の体をぎゅうぎゅうしめつけるのであった。そのうちに息が止りそうになった。
「ああっ!」
 もうだめだと思った。天狗岩の上で、変な怪物にしめ殺されてしまうんだと、覚悟しなければならなかった。そのとき千二の瞼の裏に、わが家に、彼の帰りを待っている父親千蔵の顔が、ぼうっと浮かんだ。
「あ、お父さん」
 すると、父親千蔵の顔が、にやりと笑って、
「おい千二。負けちゃならねえぞ。かまうことはない。そのけだものを、水の中にひきずりこめよ。お前の得意の水練で、相手をやっちまうんだな」
 と、千二をはげました。きっとそれは、人間が息たえだえになる時に、必ず見る幻であったと思うが、また同時に、孝心ぶかい千二に対し、神が助けの手をのべさせたもうたものと思われた。
「よし、負けるものか」
 千二は、勇気百倍した。そうして力いっぱい相手をつきとばした。
 だが、そんなことで離れるような相手ではない。
 ひゅう、ひゅう、ひゅう。
 かの怪物は、うなり出した。
「うぬ、この野郎!」
 千二は、もう必死だ。相手が離れないと見ると、そのままずるずると相手をひきずって、岩の先の方へ――。
 怪物は、驚いたか、また
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