か……」とマートンは首をかしげたが「とにかく今のところはこうして火星へ飛び続けているよ、本艇の損害は案外軽いのかもしれない。デニー博士がいま調べていられるのだ」
 おおデニー博士。博士は無事なんだ、そしてもう元気に、重大な仕事に当っておられるのか。自分もぼやぼやしてはいけないと、河合少年はわが身を励《はげ》ました。


   老博士の教訓


 河合少年は、仲間の安否を確めるために操縦室を出た。
 どこもここも、たいへん壊れていた。艇の外壁などは、大きくもぎとられて廊下がむきだしになっていることがあった。
「あああぶない。そっちへ出てはいかん」
 河合少年が廊下をのぞいていると、うしろから彼の腕をとって引戻した者がある。少年はおどろいて振返った。立っていたのはデニー博士だった。
「そこへ身体を出すと、吹飛ばされて墜落するからね。出ちゃいかん」
 老博士は重ねて河合に注意をした。彼はうれしく思って、あつく礼をいった。博士は、軽く肯《うなず》いた。それから、
「そうだ。君たち少年は四人だったな」
「ええ、そうです」
「そうか。君たち少年が本艇に乗ってくれたので、今わしはたいへん気が強い。これはわしからお礼をいうよ」
「はあ、どうしてですか」
 河合は腑《ふ》に落《お》ちないので、問い返した。
「わしはこの年齢であるから、もう先はないが、君たち少年はこれから五十年も六十年も生きられるのだ。わしたちが成功させることができなかった事業は、ぜひ君たち四人の少年が継いで、成功させてほしいものだ」
 老博士はしんみりとした調子でいって、河合少年の肩を叩いた。
「はい。皆にそういって、しっかりやります。しかし博士。今度の火星探険はもう失敗ときまったのですか」
 河合は尋《たず》ねた。老博士のことばがそのように響いたからである。
 博士はしばらく黙っていた。白い髭がこまかく慄《ふる》えていた。やがて博士は口を開いた。
「まだ、はっきりしたことは分らぬ、だがね、河合少年。うまく火星に着陸できたとしても次に火星から地球へ戻るときには新しい宇宙艇を建造しなければならないだろう。これはたいへんな大事業だ。それに君たち少年の力が絶対に必要なのだ。そのことは今に分るだろう。万一のときには、わしの部屋にある緑色のトランク――それには第一号から第十号までの番号がうってあるがそれを君たちに贈るから、大事にしてくれたまえ。それはきっと君たちを助けるだろう」
「はあ。そのトランクの中には、何が入っているのですか」
「それはね、わしが永年苦心して作った設計図などが入っているのだ。そのときになれば分るよ」
「博士。それでは、この宇宙艇では、もう地球へ戻れないのですか」
「多分、戻れないだろう。帰還用の燃料は殆んどなくなったし、艇もこのとおり大損傷を蒙っているしね、それにまだいろいろ心配していることがあるんだ。おお、そうだ。こうしてはいられない、またゆっくり話をしてあげようね」
 老博士は、大事な用事を思い出したと見え、すたすたとむこうへ行ってしまった。
 それから河合は食堂へ行った。
 そこには仲間が集っていた。山木もいた。張もいた。ネッドの顔も。皆無事であった。運がよかったのだ。ただ張だけが右脚に打撲傷を負っていて、足をひいていた。
 河合少年は、老博士からいわれた話を、ここで皆にして聞かせた。
 この宇宙艇では地球へ戻れない、という話は一同を失望させた。河合は一同を励まさねばならなかった。デニー博士の信頼と期待とを破らないように、これから一層勉強をしなければならない。これは地球人類の光栄と幸福のために、ぜひそうしなければならないのだと力説して、ようやく一同の気を引立てることができた。折からマートン技師が入ってきた。彼もまた無事だったが、衣服は油ですっかり汚れ切っていた。またエンジンと組打《くみうち》をやって大奮闘をしたのであろう。
「おお、皆無事だったな。見たかね、火星の表面を。宇宙塵圏を通り抜けたので、今はすっかり晴れて、火星の表面がよく見えるよ。火星の運河というのを知っているね。あれもちゃんと見えるよ。さあ早く、展望室へ行ってごらん」
 そういわれて、四少年は飛出していった。そして展望台へ駆けのぼった。
 おお、見える見える。火星の表面が明るく見える。火星の昼なんだ。それはもう地球を上空から見下ろすのと大差はなかった。
 緑色の長い条が、蜘蛛の巣のように走っている。あれが火星の運河にちがいない。
 が、それは運河ではなさそうだ。まだはっきりはしないが、何だか森林が直線状に続いているように見える。
 火星の陸地は、褐色であった。やはり土があると見える。
 海らしいものも見える。しかし地球の大洋を見なれた目には、あまりに小さい海だ。まるで湖のように見える。
 一体本艇は、どのへんに着陸するのであろうか。火星の生物は、本艇をもう見つけているだろうか。どこかに火星の生物の飛んでいる姿は見えないであろうか。
 少年たちは思い思いに想像を逞《たくま》しくしている。神経衰弱だったネッドまでが、奇異の目を光らせて、下界に眺め入っている。
 が、突然|椿事《ちんじ》が起った。
「総員、エンジン室へ集れ」
 けたたましい警鈴《ベル》と、悲痛な叫び声。それが終らないうちに艇は嵐の中に巻込まれたような妙な音をたて始め、そしてぐんぐん下へ落ちて行くのが感じられた。
「墜落だ。あっ、火事だ。尾部から煙の尾を曳いているぞ」
 さっきまで無事進空を続けていた宇宙艇であったが、火星の高度二万メートルのところから急に錐揉《きりもみ》状態に陥って煙の尾を曳きながら墜落を始めたのだ。
 老博士以下の運命は、どうなるか。


   火星着陸


 エンジン室の様子は、戦場のようにものすごかった。
 艇長デニー博士は、一段と高い指揮台の上に立ちあがり、声をからして次から次へと伝令を出した。博士の顔は、血がたれそうにまっ赤で、灰色の頭髪は風に吹かれる枯れすすきの原のように逆立ち、博士の両眼は皿のように大きく見開かれたままだった。
「界磁《かいじ》電圧を六百ボルトまであげろ。……発電機がこわれたっていい。あと五分間もてばいいんだ。……第三電動機、回転をあげろ。三千八百回転まで、油圧を上げろ……」
 老博士の声は、まるで若者のように響いた。
 四少年も、あっちへ走り、こっちへ走りして力を添える。
 マートン技師と河合少年が、まるで二人三脚をやっているように、身体をくっつけ合って配電盤の方へ走る。
 張は、界磁用抵抗器のハンドルにぶら下って、両足をばたばたやっている。
 ネッドは――ああ可哀そうに頭から黒い油をあびてしまった。
 山木は、鋼鉄の梁《はり》の上によじのぼり、そこに据えつけてあった大きな双眼鏡にかじりついて、外を見ている。
「……あと一万三千メートル。艇はすこし西へ流れた。……沙漠だ。広い沙漠だ。湖が見える。大きな輪がいくつも見える。何だかわからない……」
 山木は、双眼鏡の中に入ってくるものをとらえて、片っ端から言葉に直す。
「まだか、まだか、マートン技師」
 デニー博士の声が、爆風のように響く。その答はない。
「マートン技師。どうした……」
 すると漸《ようや》くマートンの右手があがった。と博士の肩がぶるぶると慄《ふる》えた。
「重力中和機の全部。スイッチ入れろ」
「よいしょッ」
 と、ぐぐぐぐッと地鳴りのような響がして、けたたましく警鈴《ベル》が鳴りだした。
「ああッ」
「うーむ……」
 エンジン室の全員が、電気に引懸ったように呻《うな》った。そして誰もが、死の苦悶のような表情で、目を閉じ、歯を喰いしばった。
 ネッドは、油の海へいやというほど顔をおしつけられた。張は配電盤へおしつけられ、服のお尻のところへ火花がぱちぱち飛んだ。河合はマートン技師の股ぐらへ首をつっこんでしまった。山木は、後へ急に引かれて、鋼鉄の梁に宙ぶらりんとなった。
 時間にして四十秒の短い間だったが、人々はそれを百年のように永く感じた。その間人々の息は停り、心臓さえ、はたと停ってしまったように思った。
「うまく行ったぞ。重力は減った。墜落の速度は落ちた。た、た、助かるぞ、これなら……」
 最初に声を出したのは、艇長デニー博士であった。博士の最後的努力が遂に効を奏したのだった。
 嵐が急にやんだように、狂瀾怒濤《きょうらんどとう》が一時に鳴りを鎮めたように、乗組員たちの気分は俄《にわ》かにさわやかとなった。立っていた者は、へたへたとその場に崩れるように尻餅をついた。
 油の海の中に気を失っているネッドが、河合によって助け起された。そこへマートン技師が駆けつけて、活《かつ》を入れてくれたので、ネッドは息をふきかえした。助けられた者も、助けた者も、共に顔はまっ黒で、全身から油がしたたり、まるで油坊主のようであった。
「……高度五百メートル、六百メートル。少し上昇していきます」
 いつ、元の双眼鏡へ戻ったか、山木が元気な声で叫んだ。
 と、デニー博士がよろよろとよろめきながら、指揮台の手すりを力に立上った。
「マートン技師。重力中和機を調整するのだ。着陸用意。舵を下げろ。五度へ下げろ。それから零度へ戻せ……」
 マートンが、油をはねとばしながら駈け出した。
「……大きな密林だ。密林だ。あっ、密林が切れて、今度は海だ。海、海……」
 山木が叫ぶ。
「右旋回……」デニー博士の声。
「なに、やっぱり駄目か。……噴流器の右側の列を使うんだ。早く早くしろ」
 博士のこの言葉がなかったら、宇宙艇はむざんにも火星の海に頭を突込んで沈んでしまったろう。そうなれば折角ここまで宇宙艇を護りつづけてきたデニー博士以下の乗組員たちも、哀れ、火星着陸の声を聞くと共に異境の海に全員溺死してしまったであろう。博士の沈着にして果断な処置が、危機一髪のところで全員を救ったのだ。
「沙漠! 沙漠!」
 右側の噴流器から、その全部ではないが、二三本の猛烈なる黒色|瓦斯《ガス》を吹きだしたので、宇宙艇はお尻を右に曲げたとたんに、海が無くなって、白い沙漠が現れた。それから四五秒後に、轟然《ごうぜん》たる音響と共に、宇宙艇の腹部が砂原に接触した。これこそ、記録すべき火星着陸の瞬間だった。
「開放……」
 エンジンは外《はず》された。弾力はまだ残っていた。宇宙艇は沙漠のまん中を、濛々と砂煙をあげてなおも滑走した。
 が、何が幸いになるか分らないもので、この沙漠着陸のおかげで、宇宙艇の尾部における火災が俄かに下火となった。


   感激の乗組員


 滑走すること約三千メートルで宇宙艇はやっと停止したのだった。
 全員は、おどりあがって歓呼の声をあげた。誰の目からも、よろこびの涙があふれて頬をぬらしていた。そうでもあろう。火星への大航空が遂に自分たちの手によって完成したのである。乗組員はわずか十名たらずの少人数で、この困難な大事業を見事にやりとげたのであった。生命の危険にさらされること幾度か。それを切抜けることができたのは全くふしぎでならぬ。いや、これこそ全員が、互に助けあい、自分の勝手を行わず、指揮者デニー博士の命令に従い、すこしも乱れることなく組織の最高能率を発揮した結果に外ならないのだ。
 そして友を救おうとして、自分を救うことにもなったのだ。美しい友情だ。愛の勝利であった。
 艇長デニー博士のよろこびは、誰よりも大きかった。火星探険協会を起こしてからここに二十五年、遂にその大事業は成功したのだ。その間、博士は、或る時は山師とあざけられ、また或る時は資金は尽《つ》きて、ナイフやフォークまで売り払わねばならなかったこともあった。
 だが今やそんなことはすっかり忘れていいのである。
 だが博士はこの大歓喜に酔ってばかりいるわけにはいかなかった。というわけは、博士が設計し建造したこの宇宙艇は、今|漸《ようや》く火星に着陸したばかりである。仕事はそれで終ったのではない。いやむしろ仕事は今後にあるのだ。
 着陸したところは、地球の上ではない。勝手のわからない火星の上
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