暗号音盤事件
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暫《しばら》くの間

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小|卓子《テーブル》の上に
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     国際都市


 私たちは、暫《しばら》くの間リスボンに滞在することになった。
 私の連《つ》れというのは、例の有名な勇猛密偵《ゆうもうみってい》の白木豹二《しらきひょうじ》のことだ。
 リスボンは、ポルトガルの首都だ。そのころリスボンは、欧州に於ける唯一《ゆいい》つの国際都市の観があった。この国は英米側に立つのでもなく、日本、ドイツ、イタリヤの枢軸国側《すうじくこくがわ》に加わっているのでもなく、完全な中立国であった。だから、リスボンの町は、いわゆる呉越同舟《ごえつどうしゅう》というやつで、ドイツ人やイタリヤ人が闊歩《かっぽ》しているその向うから、イギリス人やアメリカ人や、それからソ連人までが、安心し切った顔で、ぶらぶらこっちへ歩いて来てはすれちがうという珍風景が、至るところで見られた。
 だから私たちも、ここにいる間は別に中国人やベトナム人を装《よそお》う必要なく、わたし達は、日本人だぞと大ぴらに本国の国籍を表明していて一向さしつかえないのであった。私は、久方振《ひさかたぶ》りのこうした安楽した気持におちついたので、願わくば、今二三月もこの土地で静養したいものだと、ふとそんな贅沢《ぜいたく》な心が芽生《めば》えてくるのだった。その贅沢心を、或る日白木豹二が、一撃のもとに打《う》ち壊《こわ》してしまった。彼はその前夜から宿を明け放《はな》しであったが、正午ごろになって、ふらりと私の部屋にとびこんできて、オーバーもぬがず、ステッキをふりながら、常になく、はあはあと息せき切っていうことには、
「おい、日本人の名誉にかかわることが起ったんだ。われわれは今夜八時に、ウィード飛行場から出発だぞ」
 突拍子《とっぴょうし》もない話である。日本人の名誉に拘《かかわ》るとはいかなる事件が起きたのか、私には皆目《かいもく》呑《のみ》こめない。
「何が日本人の名誉にかかわるんだい」
 私は、安楽椅子に腰を深く下ろしたまま、ウェルスの小説本の続きを読みながら、たずねた。
「それは、こうだ。ええと、どういったらいいかなあ」と、白木は、妙に考え込《こ》んだ。
「そうだ。つまり、敵性国《てきせいこく》イギリスの息の根を徹底的に止めちまうことについて、なんだ。かの三国同盟の精神の故であるは勿論のこと、我々日本の当面の敵としてだ。ところで、その徹底的――いいか徹底的だぞ、徹底的に息の根を止めるには、われわれが出馬《しゅつば》しないと、どうしても駄目なんだ。だから今夜出発だ。どうだ分ったろう」
 白木の話は、何を指しているか、さっぱり分らなかった。何か曰《いわ》くのあることらしいとは感づいたが、それを根掘り葉掘り聞くとなると、白木が今夜のような態度のときには、きっと変にからまってしまうのが例だった。日本を放れてはるばるこんなところへ来ている二人組の間に、気拙《きまず》いことが起るぐらい面白くなく、そして淋しいことはないので、こういう時には、結局ワキ役である私の方で気をきかせて譲歩し、彼の我儘《わがまま》を認めてやる事にしている。
「よかろう、もうその位で……。八時出発は分ったが、目的地は何処かね。服装の準備のこともあるからね」というと、白木は案外だという顔付で、私を見直《みなお》して、にこにこしながら、
「ああそうだった、目的地をまだ云わなかったが、ゼルシー島だよ。ジブラルタルから南西へちょっと一千キロ、マデイラ群島中の小さな島だ。ゼルシー島だよ」
「ゼルシー島か。ゼルシー島といえば、メントール侯の城塞《じょうさい》のある島だ」
「そうだ、物覚《ものおぼ》えがいいね、君は。しかしその城塞が、ドイツ軍の爆撃に遭《あ》って、三分の二ぐらいは崩れてしまっていることを知っているかね」
「ほほう、そんなことがあったのか。僕は知らなかったね」
「勿論そうだろう。おれだって、昨晩《ゆうべ》それを聞いて始めて知ったばかりだ」
「白木、君は昨夜、どこに居たのかね」
「昨夜は、ドイツ軍人とその第五列との秘密集会の席にいたよ。――さあ、夕方まで、まだちょっと時間があるから、おれはエミリーの酒場に敬意を表してくる。そうだ、それからプリ銃砲店《じゅうほうてん》に寄って、倉庫探しの結果を聞いてくるからね」
「倉庫探しというのは、何のことかね」
「いや、今度ゼルシー島に持って行きたいものがあるので、それを探してくれるように頼んで置いたんだ。一種の軽機関銃《けいきかんじゅう》のことだがね」
「軽機《けいき》? そんなものを持っていく必要があるのかね」
「はははは、怖《お》じけづいたのかね。軽機といっても大したことはないよ、相手が愕《おどろ》いてくれればいいだけのことだ」
「ふーん、そうかね」
 私は思わず呻《うな》ってしまった。白木は、私が怖じけないようにと、わざと物をかるくいっているように思われる。


   妙な伯爵と男爵


 私たちの乗った船は、ゼルシー島についた。
 実をいえば、私は鬼《おに》ヶ島《しま》へいくような気持をもって、ここまでやって来たのであるが、あの緑の樹で蔽《おお》われた突兀《とっこつ》と天を摩《ま》する恰好のいい島影を海上から望んだ刹那《せつな》、そういう不安な考えは一時に消えてしまった。そして非常に魅力のある極楽島《ごくらくとう》へ来たように感じたのであった。
 上陸第一歩、私は、もうすっかり気をよくしていた。それはこの島に住んでいる若い白人の娘たちが、果物の籠を抱《かか》えて、私たちの方へとびついて来たからであった。
「あのう、こちら、リスボンからいらした日本領事館の方でしょう。あたしたちお迎えにあがりましたのよ」
 娘たちは、私たちを囲んで、もうすっかりお友達のような気になって、はしゃぐのであった。白木も上機嫌《じょうきげん》だ。
「やあやあ。迎えに来てくださるという話のあったのは、貴女《あなた》がたでしたか。ネリーも意地悪だなあ。だって、お婆さんが二三人迎えに出るかもしれないといったんですよ。はははは、まさかこんなに花のようにうつくしいお嬢さん方にとりまかれようとは思わなかったなあ。ネリーのいたずらにうまうま一杯ひっかかったんだ。はははは」
「ネリーなら、やりそうなことですわ。ところでどちらが二俵伯爵《にひょうはくしゃく》で、どちらが六升男爵《ろくしょうだんしゃく》でいらっしゃいますの」
 二俵伯爵に六升男爵? 私は、娘たちがからかっているのだとばかり思っていた。
「それは一目見ればわかるでしょう。余《よ》がすなわち噂に高き二俵伯爵であり、こっちの黙りこんで昼間の梟《ふくろう》のように至極《しごく》温和《おとな》しいのが、六升男爵でいらせられる」
 白木が、とんでもないことをいいだした。私は、あきれてしまって、うしろから彼の腕をゆすぶったが、それが通じるどころか、彼は身ぶりたっぷりで、お嬢さんたちの機嫌をとりむすぶのに夢中である。
「……ええ、そういうわけで、メントール侯とは、ずいぶん昔から深い御交際をねがっている。メントール侯ですぞ。わかりますか、そこに聳《そび》えているゼルシー城の持主であられたメントール侯にね」
 白木は、ステッキの先をあげ、はるかの山顛《さんてん》にどっしりと腰をおちつけているゼルシー城塞《じょうさい》を指《ゆびさ》した。
「まあ、あの侯爵さまと、そんなにお親しい御間柄《おあいだがら》ですの。そう伺《うかが》えばなつかしいわ。で、侯爵さまは、このごろちっともわたしたちに顔をお見せになりませんのですけれど、一体どこにいらっしゃるのでしょうかしら」
 娘たちの間には、かのメントール侯こそ憧憬《あこがれ》の星であるらしく思われた。
「さあ、そのメントール侯だが、実は私もその行方《ゆくえ》をお探し申上げているのですがね。侯には今から半年ほど前の或る夜更《よふ》けにリスボンの或る場所でお目に懸《かか》ったが、それが最後の会見だったのです。侯の消息《しょうそく》は依然として不明ですわい。その夜、侯がいつになく酒もたしなまれず、蒼《あお》い顔をして溜息《ためいき》ばかりをついていられたのを思い出します」
 白木は、娘さんたちに気に入るようにと、たくみに話をはこんでいる。しかし、その喋《しゃべ》っているメントール侯の消息については、どこまで本当なのか、私には解りかねた。
「あのう、侯爵さまは、その夜、音楽の話をなさったり、それから御愛用の音叉《おんさ》を、ぴーんと鳴らしてみたりなさらなかったでしょうかしら」
「ああ、あの有名なる音叉ですか。非常に高い音の出るあの音叉は、侯が私たちと話をなさるときには、いつも手にして玩具《おもちゃ》のように弄《もてあそ》びながら、ぴーんと高い音をたてられるのが例だった。しかし、あの最後の夜には、それもなかったのですよ。――侯があの音叉をお鳴らしになるのはどういうわけですかな、お嬢さんたちはそれを御存知?」
 話が妙な方向にそれた。私は音叉の話など初耳だ。白木先生の意図《いと》をはかりかねながら、私は黙ってこの対話に耳を傾けていた。
「侯爵さまは、いい声の人を探し出すために、ああしてたえず音叉を鳴らして、話し相手の声をおしらべになっていたんですって、そんな話を、お聞きになりません?」
「私たちは、お嬢さんがたほど信用がなかったのか、それとも私に音楽の素養《そよう》がないと思ってか、侯は私たちには、そんな話をしませんでしたね。いつもする話は、酒とそして……いや、よしましょう、そんな話は。で、音叉を鳴らすと、なぜ声のいい人だということが分るのですか」
「さあ、それは、その人の声と音叉の音とがからみあって第三の声が聞えるんだそうですわ。それはその第三の声は侯爵さまだけに聞える音で、他の平民どもには聞えない音なんですって。だから侯爵さまは、誰も持っていない神の力でもって、いい声の人をお探しになれるのですってよ」
「やれやれ、今のメントール侯も、中世紀ごろと同じに、半分は人間で、半分は神さまなんですね。さあさあ、話はそれくらいにして、今夜は皆さんに集っていただいて、ダンスの会を開きましょう。リスボンから仕入れて来た御馳走も開きますよ。ぜひ皆さん来てくださいね」
「あーら本当ですの。本当なら、素敵《すてき》だわ」
「あたし、そう来るだろうと思って、待ってたのよ」
「まあ、あんなことを……」
 とにかくに、白木は、まんまと島の白人の娘さんたちの人気を攫《さら》ってしまった。まるでメントール侯の再来でもあるかのように。


   本土《ほんど》の外《そと》の秘庫《ひこ》


 山麓《さんろく》の宿舎に入って、私はさっきから気になって仕方のなかったことを、白木に訊《たず》ねたのであった。
「メントール侯と音叉《おんさ》の話は、出鱈目《でたらめ》なんだろうね」
「出鱈目などとは、とんでもない。それに、あの金髪娘たちが、その本当なることを、あのとおり証明してくれたんじゃないか」
「すると、メントール侯の音の研究は、本格的なんだね。ふしぎな城主さまだ」
「おいおい、感心してばかりいたのでは駄目だよ、あれは君に聴かせるために、おれが話を切り出したことなんだ」
「私に聴かせるためというと……」
「音楽の学問なんか、おれには分らないのさ。ぜひとも君に聴いておいて貰《もら》って、これからわれわれの取り懸ろうという仕事の手がかりにして貰いたかったわけだよ」
「これから取り懸るという仕事とは、ゼルシーの廃墟《はいきょ》をたずねて、何か宝物でも掘りだすのかね」
「うん、宝探しにはちがいないが、困ったことに、その宝の形が一向はっきりしないのさ。とにかくそれは、イギリス政府が英本土を捨てて都落ちをする際、使用することになっている暗号の鍵なんだ。それが、あのゼルシー城塞のどこかに隠されているのだ。われわれは、それを探し出すために、この島までや
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