分析の爪をたてた。
「――そうだった。そういう一つの特殊な場合が有り得る。しかもそう考えることは、今日ではもう常識範囲ではないか」
 夫人はそこで長大息《ちょうたいそく》した。
 恐ろしいことだ。恐ろしいアイデアだ。恐ろしい係蹄《わな》だ。
 夫人をして、恐ろしい係蹄だと叫ばしめたものは何だったか。――それは愛する夫万吉郎が果して真《まこと》の万吉郎であろうかという恐ろしい疑惑であった。
 およそこの世に、顔も姿も、何から何までそっくり同じ人間が二人とあろう筈がない――と、確かにその昔には云えた。しかし今日において、それと同じことが確かに云えるだろうか、同じことが信ぜられるだろうか。いやいや、今日においては――すくなくともヒルミ夫人の田内新整形外科術が大なる成功をおさめてから以来においては、そういうことは全く信じられなくなったのだ。
 丁度|死面《デスマスク》をとるときのように、一つの原型がありさえすれば、それと全く同じ顔はいくつでも簡単にできるようになっているのだ。もちろんそれは、ヒルミ夫人の開いた新外科術の働きなくしては云いえないことだった。
 ヒルミ夫人の新外科術が信頼すべきものであることはヒルミ夫人自身が一番よく知っていた。しかもこの場合、夫人自身が創生したその信頼すべき手術学のために、夫人が生命をかけている愛の偶像を、自らの手によって破壊しさらねばならぬとは、なんたる皮肉な出来事であろうか。
 わが掌中《しょうちゅう》にしっかり握っていると信じていたわが夫は、はたして真《まこと》の万吉郎であろうか。はたして万吉郎か、それとも万吉郎を模倣した偽者か。
 夫人は自らの作りあげた入神《にゅうしん》の技が、かくも自らを苦しめるものとは今の今まで考えなかった。もしこんなことがあると知っていたら、もっと不完全な程度にとどめるのがよかった。神の作りたまえる人間と、寸分たがわぬ模写人間を作ろうとしたことが、既に神に対する取りかえしのつかない冒涜《ぼうとく》だったかも知れない。
 ヒルミ夫人の瞼《まぶた》に、二十数年この方跡枯れていた涙が、間歇泉《かんけつせん》のようにどッと湧いてきた。
 夫人は長椅子の上にガバと伏し、両肩をうちふるわせ、幼童のように声をたてて、激しく鳴咽《おえつ》しはじめた。

 そのことあって以来、ヒルミ夫人の頬が俄《にわ》かに痩《こ》け、瞼の下に黝《くろず》んだ隈が浮びでたのも、まことに無理ならぬことであった。
 ひとりで部屋のうちに籠っていれば、疳《かん》にうち顫《ふる》う皓《しろ》い歯列《はならび》は、いつしか唇を噛み破って真赤な血に染み、軟かな頭髪は指先で激しぐかき※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られて蓬《よもぎ》のように乱れ、そのすさまじい形相は地獄に陥《お》ちた幽鬼のように見えた。
 それにも拘らず怜悧《りこう》なるヒルミ夫人は、夫万吉郎を傍に迎えるというときは、まるで別人のようにキチンと身づくろいをし、玉のような温顔をもって迎えるのであった。秋毫《しゅうごう》も夫万吉郎に、かき乱れたる自分の心の中《うち》を気どられるような愚はしなかった。
 しかもその際ヒルミ夫人は、その温容なマスクの下から、夫万吉郎の容姿や挙動について、鵜《う》の毛をついたほどの微小なことにも鋭い観察を怠らなかった。もしも万一、その夫が真《まこと》の万吉郎でない証拠を発見したときは、彼女は直ちに躍りかかって、その偽の万吉郎の脳天を一撃のもとに打ち砕く決心だった。
 しかし夫は、なかなか尻尾《しっぽ》を出さなかった。尻尾を出さないということは、夫とかしずく男が、依然として真の万吉郎であるという証明にもなったが、同時にまたヒルミ夫人は自らの神経を刺戟して、その男が巧みにも真の万吉郎そっくりに化け終《おお》せているのではないかと、もう一歩鋭い観察に全身の精魂を使いはたさなければ気がすまなかった。げに無間地獄とは、このような夫人の心境のことをさして云うのであるかもしれない。
 煩悶は日毎夜毎《ひごとよごと》につづいていった。疑惑はまた疑惑を生み混乱の波紋は日を追うて大きく拡がっていった。
 そしてとうとう最後には、もう紙一重でヒルミ夫人の脳が狂うか否かというところまで押しつめられた。
 夫人は、灯もない夕暮の自室に、木乃伊《ミイラ》のように痩《や》せ細った躰《からだ》を石油箱の上に腰うちかけて、いつまでもジッと考えこんでいた。もうここで敗北して発狂するか、それとも思いがけないアイデアを得て辛《から》くも常人地帯に踏みとどまるか。
「あ、――」
 夫人は暗闇のなかに、一声うめいた。
 天来のアイデアが、キラリと夫人の脳裏に閃《ひらめ》いたのであった。
「あ、救われるかもしれない」
 リトマス試験紙が、青から赤に変るように、夫人の蒼白い頬に、俄かに赤い血がかッとのぼってきた。
「――素晴らしい着想だわ」
 夫人は床をコンと蹴ると、発条《ばね》仕掛の人形のように、石油箱から飛びあがった。そして傍に脱ぎすててあった手術着をとりあげると、重い扉を押して、広い廊下を夫万吉郎の部屋の方へスタスタと歩いていった。

 いつも空腹なヒルミ夫人の冷蔵鞄が、腹一杯にふくれたのは、それから二時間とたたない後のことだった。
 その冷蔵鞄というのは、いつもヒルミ夫人の特別研究室に置いてあったものだった。それは最新式の携帯用冷蔵庫であった。夫人は時折、この鞄のなかに、動物試験につかった犬や兎の解剖屍体を入れて外を下げてあるいたものである。
 しかし今日という今日は、犬や兎の屍体はすっかり取り出されて、汚物入れのなかに移されてしまった。ひとまず鞄のなかは、綺麗に洗い清められ、そしてそのあとにバラバラの人間の手や足や胴や、そして首までもが、鞄のなかにギュウギュウ詰めこまれた。その寸断された人体こそは誰あろう、他ならぬヒルミ夫人の生命をかけた愛すべき夫、万吉郎の身体であったのである。
 ヒルミ夫人は、夫万吉郎の身体を、生ながら寸断して、この冷蔵鞄のなかに入れてしまったのである。
 では、ヒルミ夫人は、愛する夫を遂に殺害してしまったのであろうか。
 いや、そう考えてしまうのはまだ早くはないか。
 とにかくこうして、ヒルミ夫人は愛する夫の身体を冷蔵鞄のなかに片づけてしまったのである。それからというものはヒルミ夫人は、その冷蔵鞄を必ず身辺に置いて暮すようになった。
 ちょっと部屋を出て廊下を歩くようなときでも、また用があって街へ出てゆくようなときでも、その冷蔵鞄はいつもヒルミ夫人のお伴をしていた。
 これで夫人は、愛する夫を完全に自分のものにすることができたと思っていた。もう夫は、街へ散歩にゆくこともなくもちろん他の女に盗まれる心配もなくなったわけである。
 夫人は歓喜のあまり、その日の感想を、日記帳のなかに書き綴った。それは夫人が生れてはじめてものした日記であった。その感想文は次のようなまことに短いものであったけれど――
「×年×月×日。雨。」
 気圧七五〇ミリ。室温一九度七。湿度八五。
 遂に妾《わたし》は、決意のほどを実行にうつした。
 この世に只ひとり熱愛する夫を、特別研究室に連れこんで電気メスでもって、すっかり解体してしまった。夫は最後まで、今自分が解体されるなどとは思っていなかったようだ。
 妾の激しく知りたいと思っていたことは、夫として傍に起き伏している一個の男性が、果たして真《まこと》の万吉郎その人であるかどうかを確めたかったのである。だから妾は、夫の躰をすっかりバラバラに解剖してしまったのだ。
 剖検《ぼうけん》したところによると、それは全く、真の夫万吉郎の躰に相違なかった。いや、万吉郎の躰に相違ないと思うという方がよいかもしれない。いやいやそんな曖昧《あいまい》な云い方はない。それは万吉郎その人以外の何者でもあり得ないのだ。
 なぜなれば、その男性の身体は常日頃、妾がかねて確めて置いた夫の特徴を悉《ことごと》く備えていたからである。たとえば内臓にしても、左肺門に病竈《びょうそう》のあることや、胃が五センチも下に垂れ下っていることなどを確めた。(夫の外にも同じ顔の同じ年頃の男で、左肺門に病竈があり、胃が五センチも下垂している人があったとしたら、どうであろう? いやそんな人間があろう筈がない。偶然ならば有り得ないこともないが、偶然とは結局有り得ないことなのである。妾はそんな偶然なんて化物に脅かされるほど非科学者ではない!)
 妾は思わず、子供のように万歳を叫んだ。愛する夫は、今や完全に妾のものである。今日という今日までの、あの地獄絵巻にあるような苦悩は、嵐の去ったあとの日本晴れのように、跡かたなく吹きとんでしまったのだ。なぜもっと早く、そのビッグ・アイデアに気がつかなかったのだろう。
 始めの考えでは、妾は剖検を終えたあとで、夫の躰を再び組み直して甦《よみがえ》らせるつもりだった。妾の手術の技倆によればそんなことは訳のないことなのであるから。――だが妾は急に心がわりしてしまった。
 恋しい夫のバラバラの肢体は、そのまま冷蔵鞄のなかに詰めこんでしまった。夫の手足を組み立てて甦らせることは暫く見合わすことに決めた。何故?
 妾はゆくりなくも、愕くべき第二のビッグ・アイデアを思いついたからだ。恐らく妾は今後二十年を経るまでは、夫万吉郎のバラバラ肢体を組立てはしないだろう。二十年経つまでは、夫の肢体を冷蔵庫のなかに入れたまま保存するつもりだ。なぜだろう?
 今から二十年経てば、妾はもう五十歳の老婆になる。整形外科術の偉力でもって、見かけは花嫁のように水々しくとも気力の衰えは隠すことができないであろう。そしてもし夫万吉郎を今日甦らせて置けば、二十年後には四十五歳の老爺と化すであろうから、同じように精力の甚だしい衰弱を来《きた》すことは必然である。おお四十五歳の老爺になった夫! それを想像すると、妾はすっかり憂鬱になってしまう。
 夫はなるべく若々しいのがいい。ことに妾自身の気力が衰える頃になって、隆々《りゅうりゅう》たる夫を持っていることが、どんなにか健康のためにいい薬になるかしれないのだ。妾はそこに気がついた。
 愛する夫万吉郎は、今から二十年間、この冷蔵鞄のなかに凍らせて置こう。
 妾が五十歳になったときに、丁度その半分の年齢にあたる二十五歳の万吉郎を再生させるのだ。
 そして尚それまでに、妾は十分に研究をつんで、男の心をしっかり捕えて放さないと云う医学的手段を考究して置くつもりだ。なにごとも二十年あれば、たっぷりであろう。
 おおわが愛する夫よ。では安らかに、これから二十年を冷蔵鞄のなかに睡れ!

「これで私の話はおしまいなんです。どうです、お気に召しましたか、さっき靄のなかの街頭に御覧になった『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』の解説は――」
 そういって若い男は、広い額にたれさがる長髪をかきあげ、冷えたコーヒーをうまそうにゴクリゴクリと飲み干した。
 僕はそれには応えないで、黙って黄いろい壁をみつめていた。
「――お気に召さないんですか。これほどの面白い話を――」
 若い男は、バター・ナイフを強く握って、猫のように身構えた。
 僕はわざと軽く鼻の先で笑った。
「面白くないこともないが、もっと話してくれりゃ素敵に面白いだろうに」
「だって話はこれだけですよ。これが私の知っている全部です」
「嘘をつきたまえ。まだ重大な話が残っている」
「なんですって」
「僕から質問をしようかネ。それはネ、この話の語り手はなぜこうも詳しく秘事を知っているのだろうかということだ。彼はまるでプライベイトの室に、ヒルミ夫人と二人でいたような話っぷりだからネ。一体君は誰なんだ。それを名乗って貰いたいんだよ」
「……」
 こんどは若い男の方が、黙ってしまった。
「ねえ、こういう話はどうだろう。――万吉郎はヒルミ夫人から脱《のが》れたいばっかりに、千太郎時代の昔にかえって猿智慧をひねりだしたんだ。大川ぞいの石垣の下から匍《は》いあがってきた小僧をうまく引張り込んで、これを
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