あげてくる心配が、ヒルミ夫人を百パアセントの人妻から次第次第に抜けださせていった。そして間もなく彼女は百パアセントのヒルミ博士となりきった。
「ハハア、分りました」と、ヒルミ夫人は胸を張り鼻をツンと上にのばしていった。それはヒルミ夫人が診察するとき必ず出す癖であった。「男性て、ほんとにか細くできている者ネ。でもあたしがそれに気がついたからには、もう大丈夫よ。すっかり安心していていいわ。当分毎日注射をしてあげましょう」
ヒルミ夫人が確信をもっていったとおり、萎びたる万吉郎は注射のおかげでメキメキと元気を恢復していった。そして三|旬《じゅん》を越えないうちに、婿入りの前よりも、ずっとずっと強き精力の持主とはなっていた。
「治療にかけちゃ、うちのかかあ[#「かかあ」に傍点]は、なかなか大したもんだ」と、万吉郎は鼻の下を人さし指でグイとこすった。「いやそれよりもかかあ[#「かかあ」に傍点]のあの口ぶりを真似ていうと、現代の医学は実に跳躍的進歩をとげた――というべきであろうかナ、うふん。とにかくこうなると、俺は現代の医学というものにもっと深い関心を持たなくちゃならんて」
そんなことがあってから後、万吉郎はヒルミ夫人に対し積極的にいろいろの治療をねだったのである。
ヒルミ夫人にとっては、万吉郎は世界の至宝であったから、少々無理なことでも喜んで聞き入れた。しかし新しい治療をするについては、面倒でも、しっかりした臨床実験の上に立つことが必要であった。そのためにヒルミ夫人は朝早くから夜遅くまで、手術着に身をかため、熱心に入院患者を切ったり縫ったりした。
ヒルミ夫人の評判は、いよいよ高くなった。博士は結婚せられてたいへん仕事に熱心を加えたという賞讃の声が方々から聞えた。全くヒルミ夫人は、その昔、田内新整形外科術をマスターするために見せた熾烈《しれつ》なる研究態度のそれ以上熾烈な研究慾に燃え、病院のなかに電気メスの把手《はしゅ》を執りつづけたのである。しかしヒルミ夫人の研究熱は、その昔の純粋なのに比べて、これはただ若き夫万吉郎に媚びんがための努力であったとは、純潔女史のために惜しんでもあまりある次第だが、なにがこうもヒルミ夫人を可憐にさせたかを考えるとき、夫人の夫万吉郎に対する火山のように灼熱する恋慕の心を不愍《ふびん》に思わずにはいられない。
不愍がられる値打はあったであろうヒルミ夫人の立場であったけれど、その狂愛の対象たる万吉郎にとって、それは必ずしも極楽に座している想いではありかねた。
早くいえば、不良少年あがりの万吉郎にとっては、ヒルミ夫人一人を守っていることに倦《あ》き倦《あ》きしてきたのであった。
もちろんヒルミ夫人は、その卓越した治療手腕をもって万吉郎の体力を、かのスーパー弩級《どきゅう》戦艦の出現にたとえてもいいほどの奇蹟的成績をもってすっかり改造してしまったのであった。だから万吉郎は、いまや文字どおり鬼に金棒の強味を加えたわけであった。ヒルミ夫人は自らも過不足なきまでに満足感に達し、万吉郎はいよいよ強豪ぶりを発揮していった。しかも万吉郎の心の隅には、黄いろく萎びた新婚早々のころ、一度ヒルミ夫人に対して抱いた恐怖観念がいつまでも汚点のようにしみこんでいて、それが時にふれ、気がかりな脅威をよび起こし、その脅威はすこしずつヒルミ夫人に対する嫌悪の情に変ってゆくのを、どうすることもできなかった。
万吉郎は、なんとかしてヒルミ夫人の身体から抜けだしたいと思った。といって完全に抜けだしてしまったのでは、こんどは生活の上に大きな脅威をうける。もう彼は、地道にコツコツ働いて、月給五十円也というような小額のサラリーマン生活をする気はなかった。ヒルミ夫人のもとにいて、懐手をしながら三度三度の食事にも事かかず、シーズンごとに新しい背広を作りかえ、そしてちょっと街へ出ても半夜に百円ちかい小遣銭をまきちらすような今の生活を捨てる気は全然なかった。経済状態はそのようにして置いて、只身体だけをヒルミ夫人のもとから解放したいと思っていたのである。
そんな贅沢な願望が、うまく達せられるものであろうか?
だが万吉郎も、ただの燕ではなかった。もとを洗えば、不良仲間での智慧袋であり、参謀頭でもあった。奈翁《ナポレオン》の云い草ではないが、彼の覘《うかが》ったもので、ついぞ彼の手に入らなかったものなんか一つもなかったぐらいだから、或いは頭脳の絶対的よさくらべをして見ると、万吉郎の頭脳はヒルミ夫人のそれに比して、すこし上手《うわて》であったかもしれない。
万吉郎は、この六ヶ敷《むずかし》い問題の解答をひねりだすために、気をかえて、昔彼が好んで徘徊していた大川端へブラリと出かけた。
どす黒い河の水が、バチャンバチャンと石垣を洗っていた。発動機船が、泥をつんだ大きな曳船《ひきぶね》を三つもあとにくっつけて、ゴトゴトと紫の煙を吐きながら川下へ下っていった。鴎《かもめ》が五、六羽、風にふきながされるようにして細長い嘴《くちばし》をカツカツと叩いていた。河口の方からは、時折なまぐさい潮《うしお》の匂いが漂ってくる。
万吉郎は宿題をゆるゆると考えるために、人気のない川添いの砂利置場に腰を下ろした。
なにかこう素晴らしい思いつきというものはないか?
口実をつくって、旅に出ようかとも考えた。だが永くてもせいぜい二、三ヶ月のことであった。一生の永きに比べると、そんな短い期間の解放がなにになろう。
発狂したことにして、病院に入ったことにしてはどうであろう。しかし病院をしらべられるとすぐお尻がわれる。
ではヒルミ夫人を巧みに殺害してはどうであろうか。いや人殺しなんて、およそ万吉郎の趣味にあわないことだった。怪しまれでもして、本当に刑務所に送られてしまえば、そんな大きな犠牲はない。
それでは誰かすこぶるの好男子をさがしだして、不倫を強《し》いるようで悪いが、ヒルミ夫人が恋慕するようにはからってはどうであろうか。やっぱりそれも拙《まず》い。ヒルミ夫人はそんな多情な女ではない。ただ一人の万吉郎を狂愛しているのであって、そうは簡単に男を変えるような夫人ではない。ではこれも駄目。――
万吉郎は無意識に砂利場の礫《こいし》を拾っては河の面に擲《な》げ、また拾っては擲げしていた。
すると突然意外な事件が降って湧いた。万吉郎の前に、河のなかへ落ちこんだ高い石垣がある。その石垣の向うから、不意に人間の首がヌッと現れたのである。
「――よせやい。なんだって俺に石を擲げるんだ。いい気持に、昼寝をしていたのに」
万吉郎は呀《あ》ッと叫んだ。
石垣の下からヌッと現れたその顔――それはひと目でそれと分る若衆の顔だった。石垣の下には、人一人がゴロリと横になれる狭いスペースがあるのであろう。
石垣をのぼってきた男に、煙草を与えなどして、万吉郎は彼を自分の横に座らせた。
「旦那、なんか腹のふくれるものは持ってないかい」
チョコレートではどうであろう。
棒チョコレートを噛《かじ》る若い男と、ボソボソと取りとめない話をしているうちに、思いがけなく万吉郎は一つの素敵なアイデアを思いついた。
「うん、これはいい。どうしてそんなことに気がつかなかったろう。ああなんと跳躍的進歩をとげた大医学よ。――」
万吉郎は悦びのあまり、男の手をとってひき起し砂利場の上で共に抱きあって狂喜乱舞したとは、莫迦莫迦《ばかばか》しいほどの悦び方だ。
「さあ君、僕と一緒にくるんだ。君のために素晴らしい儲け話を教えてやる。それに女も有るんだ。水のたれるような美味《おいし》そうな、そして素敵に匂いの高い女なんだ」
男は大口をあけて呆気《あっけ》にとられていた。
万吉郎のビッグ・アイデアとはどんなことであったろう?
さすがに利発なヒルミ夫人だった。
彼女は早くも、若い夫万吉郎の仇《あだ》し心に気がついた。
と云って、万吉郎もすでに知りつくしているように、ヒルミ夫人はいかに若い夫が仇しごとをしようとも、彼を離別するなどとは思いもよらぬことだった。いかなる手段に訴えても、恋しい夫万吉郎を自分の傍にひきとめて置かねばならないと思った。もし万吉郎が、自分のそばを一日でも離れていったときには、自分はきっと気が変になってしまうであろう。
そんな風に、可憐なるヒルミ夫人は若き夫万吉郎のことを思いつめていたのである。
臨床実験のことも、病院の経営のことも、いまや彼女の脳裡《のうり》から次第次第に離れていった。万吉郎を家から抜けださせないこと、そして他の女に奪われないこと、その二つのことがらを常々心にかけて苦労のたけをつくしていた。
だから、たまたま万吉郎が外出するときなど、他人には到底みせられないような大騒ぎが起った。ここには明細にかきかねるが、とにかくヒルミ夫人は万吉郎の身体に蛭《ひる》のように吸いついて、容易に離れようともしなかったのである。万吉郎はちょっと髪床《とこや》にゆくのだというのに、このばかばかしい騒ぎであった。
そんなことが、万吉郎の心をヒルミ夫人からずんずん放していった。それはそうなるのが当然すぎるほど当然のことだったけれどまたたしかに人間の情けの世界の悲劇でもあった。
「あなた、よくまああたしのところへ帰ってきて下すって」
夫が帰ってくると、ヒルミ夫人はひと目も憚《はばか》らず、潜々《さめざめ》と涙をながして、逞《たくま》しき夫の胸にすがりつくのであった。
そうしたヒルミ夫人の貞節が、万吉郎に響いたのであろうか、ヒルミ夫人の観察によればこの頃夫の万吉郎は、すっかり人が違ったようにすべての行為に関し純真さと熱情とをとりかえしていた。ときにいつもの口調で怒鳴りつけられることもあったが後で室《へや》に下ったときには、夫の機嫌はおかしいほど好転するのであった。ヒルミ夫人の考えではやがて昔のような生活の満足感がとりもどされるにちがいないと期待を持つようになった。
或る日のこと、ヒルミ夫人はただひとりで研究室にいた。彼女はその日、なんとはなく疲れを覚えるので、長椅子の上に豊満なる肢体をのせて、ジッと目をとじていた。前にはよくこうして睡眠をとったものである。夫人は久しぶりにしばらくここで睡ってみたいと思った。
ところがいざ目を閉じてみると、どうしたものか、逆に頭が冴々《さえざえ》としてきて、睡るどころではなかった。
「――神経衰弱かもしれない」
ヒルミ夫人は微かに頭痛のする額をソッとおさえた。
睡れなくなった夫人は、それでもジッと横になっていた。眼だけパッチリ明いて、動かぬ自分の姿態をながめていると、まるでそこに他人の屍体が転がっているように思えてくる。
ヒルミ夫人は、なんだかますます妙な気持になって来た。脳髄だけが、頭蓋骨のなかからポイととびだしてきそうな気がした。その脳髄にはいろいろな事象が、まるで急廻転する万華鏡のように現れては消え、消えてはまた変って現れるのであった。その目まぐるしいフラッシュ集のなかにヒルミ夫人は不図《ふと》恐ろしき一つの幻影を見た。それは愛する夫万吉郎そっくりの男が二人、手をつなぎ合って立っている場面だった。
「ああア、もしや本当にそうなのではなかろうか。いやそんなことがあってたまるものではない。――」
ヒルミ夫人は、その恐ろしき幻影を瞬時も早くかき消そうと焦せったが、しかもその幻影ははなはだ意地わるく、だんだんと濃く浮びあがってくるのであった。そのはてには、二人の万吉郎は夫人の方を指してカラカラと笑いころげるのであった。
なんという恐ろしい幻影だろう。
愛する夫が、一人ならず二人もあっていいだろうか。あの水々しい頭髪、秀でた額、凛々《りり》しい眉、涼しそうなる眼、形のいい鼻、濡れたような赤い唇、豊な頬、魅力のある耳殻――そういうものをそっくりそのまま備えた別の男があっていいものだろうか。
夫人は急にブルブルと寒む気を感じた。
だが夫人の明徹な脳髄は、一方に於て恐れ戦《おのの》き、そしてまた一方に於てその意味なき幻影を意味づけようとして鋭き
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング