リとわかる婦人だった。
 奇妙な黒い棺桶のような荷物をよく見れば、金色の厳重な錠前が処々《しょしょ》に下りている上、耳が生えているように、丈夫な黒革製の手携《てさげ》ハンドルが一つならずも二つもついていた。
 棺桶ではない。どうやら風変りな大鞄であるらしい。
 婦人は猟人形のように眉一つ動かさず、徐々に車を走らせて前を通り過ぎた。僕はカメラを頸につるしたまま、次第に遠ざかりゆくその奇異な車を飽かず見送った。
「お気に召しましたか。ねえ旦那」
「ああ、気に入ったね」
「――あれですよ『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』というのは――」
「え、ヒルミ夫人の冷蔵鞄?」
 僕はハッとわれにかえった。いつの間にか入ってきた見知らぬ話相手の声に――
「おお君は一体誰だい」
 僕はうしろにふりかえって、そこに立っている若い男を見つめた。
「私かネ、わたしはこの街にくっついている煤《すす》みたいな男でさあ」
 といって彼は歯のない齦《はぐき》を見せて笑った。
「しかしヒルミ夫人の冷蔵鞄のことについては、この街中で誰よりもよく知っているこの私でさあ。香りの高いコーヒー一杯と、スイス製のチーズをつけたトーストと引換えに
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