士ヒルミ夫人のいうところに随《したが》えば、人間の恰好を変えることなんか訳はないというのだった。ことに、大した面積でもない凸凹《でこぼこ》した人間の顔などは、粘土細工同様に自由にこね直すことができると断言しているのであった。ヒルミ夫人の門に教を乞う外科医がこのごろ非常な数にのぼっているのも、このような夫人の愕くべき手術効果がそれからそれへと云いつたえられたがためであろう。
ヒルミ夫人が、なぜモニカの千太郎の何処《どこ》に惹《ひ》きつけられて花婿に択《えら》んだのか、それはまた別の興味ある問題だが、とにかく結果として、千太郎は万吉郎と名乗って、年上のヒルミ夫人のお伽《とぎ》をするようになったのである。
当事者を除いては、誰もこの大秘密を知る者はない。もちろん警察でも、まさか千太郎が顔をすっかり変えて、ヒルミ夫人の花婿に納まっているとは気がつかなかった。そこでこの奇妙な新婦新郎は、誰も知らない秘密に更《さら》に快い興奮を加えつつ、翠帳紅閨《すいちょうこうけい》に枕を並べて比翼連理《ひよくれんり》の語らいに夜の短かさを嘆ずることとはなった。
ヒルミ夫人の生活様式は、同棲生活を機会として、全く一変してしまった。彼女は篤《あつ》き学究であったがゆえに、新しい生活様式についても超人的な探求と実行とをもって臨み、毎夜のごとく魂を忘れたる人のように底しれぬ深き陶酔境《とうすいきょう》に彷徨《ほうこう》しつづけるのであった。
「――いくら何でも、これでは生命が続かないよ」
と、いまは心臆した若き新郎が、ひそかに忌憚《きたん》なき言葉をはいた。
不良少年として、なにごとにもあれ知らぬこととてはなく、常人としては耐えがたい訓練を経てきた千太郎――ではない万吉郎であったけれど、その広汎なる知識をもってしても遂に想像できなかったほどの超人的女性の俘囚《とりこ》となってしまって、今は黄色い悲鳴をあげるしか術のないいとも惨めな有様とはなった。
「あなた。きょうはまるで元気がないのネ。どうかしたの」
と、薄ものを身にまとったヒルミ夫人は鏡の前で髪を梳《くしけず》りながら、若い夫に訊いた。
「どうしたって、お前――」
と、万吉郎は天井に煙草の煙をふきあげながら、かすれた声で応えた。
「まあ、――」
夫人は鏡面ごしに、このところひどく黄いろく萎《しな》びた夫の顔を眺めた。だんだんとこみあげてくる心配が、ヒルミ夫人を百パアセントの人妻から次第次第に抜けださせていった。そして間もなく彼女は百パアセントのヒルミ博士となりきった。
「ハハア、分りました」と、ヒルミ夫人は胸を張り鼻をツンと上にのばしていった。それはヒルミ夫人が診察するとき必ず出す癖であった。「男性て、ほんとにか細くできている者ネ。でもあたしがそれに気がついたからには、もう大丈夫よ。すっかり安心していていいわ。当分毎日注射をしてあげましょう」
ヒルミ夫人が確信をもっていったとおり、萎びたる万吉郎は注射のおかげでメキメキと元気を恢復していった。そして三|旬《じゅん》を越えないうちに、婿入りの前よりも、ずっとずっと強き精力の持主とはなっていた。
「治療にかけちゃ、うちのかかあ[#「かかあ」に傍点]は、なかなか大したもんだ」と、万吉郎は鼻の下を人さし指でグイとこすった。「いやそれよりもかかあ[#「かかあ」に傍点]のあの口ぶりを真似ていうと、現代の医学は実に跳躍的進歩をとげた――というべきであろうかナ、うふん。とにかくこうなると、俺は現代の医学というものにもっと深い関心を持たなくちゃならんて」
そんなことがあってから後、万吉郎はヒルミ夫人に対し積極的にいろいろの治療をねだったのである。
ヒルミ夫人にとっては、万吉郎は世界の至宝であったから、少々無理なことでも喜んで聞き入れた。しかし新しい治療をするについては、面倒でも、しっかりした臨床実験の上に立つことが必要であった。そのためにヒルミ夫人は朝早くから夜遅くまで、手術着に身をかため、熱心に入院患者を切ったり縫ったりした。
ヒルミ夫人の評判は、いよいよ高くなった。博士は結婚せられてたいへん仕事に熱心を加えたという賞讃の声が方々から聞えた。全くヒルミ夫人は、その昔、田内新整形外科術をマスターするために見せた熾烈《しれつ》なる研究態度のそれ以上熾烈な研究慾に燃え、病院のなかに電気メスの把手《はしゅ》を執りつづけたのである。しかしヒルミ夫人の研究熱は、その昔の純粋なのに比べて、これはただ若き夫万吉郎に媚びんがための努力であったとは、純潔女史のために惜しんでもあまりある次第だが、なにがこうもヒルミ夫人を可憐にさせたかを考えるとき、夫人の夫万吉郎に対する火山のように灼熱する恋慕の心を不愍《ふびん》に思わずにはいられない。
不愍がられる値打はあったであろう
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング