リと語りだした。――

 斯界《しかい》の最高権威となったヒルミ夫人は、一昨年ついに結婚生活に入った。
 その三国一の花婿さまは、夫人より五つ下の二十五になる若い男だった。それは或る絹織物の出る北方の町に知られた金持の三男だといいふらされていた。誰もそれを信じている。ところがそれは真赤な偽《いつわ》りなのだ。それを証拠だてるのに甚《はなは》だ都合のよい話がある。ほんの短いエピソードなのだが。
 それは一昨年の冬二月のことだった。
 或る下町で、物凄い斬込み騒ぎがあった。
 双方ともに死傷十数名という激しいものだったが、その外に、運わるく側杖《そばづえ》をくって斬り倒された「モニカの千太郎」という街の不良少年があった。白塗りの救急車で、押しかけて搬《はこ》びこんだのが外ならぬヒルミ夫人の外科病院だった。
 モニカの千太郎は顔面に三ヶ所と肋《あばら》を五寸ほど斬り下げられ、生命危篤であった。普通の病院だったらとても助からないところだが、ヒルミ夫人は感ずるところあって、特別研究室に入れ、日夜自分がついて治療にあたった。その甲斐あって、病人はたいへん元気づき、面会に来た警察官を愕《おどろ》かせなどしたものだが、そのうち繃帯がとれそうになったとき、千太郎は病院から脱走してしまった。
 ヒルミ夫人の届出でに、、警察では愕いて駈けつけたが、厳重だといっても病院のことだから抜けだす道はいくらもある。まあ仕方がないということになった。
 そのうちに、また元の古巣へたちまわるにちがいないから、そのときに逮捕できるだろうと、警察では案外落ちついていた。
 ところがその後《のち》千太郎は、すこしも元《もと》の古巣へ姿をあらわさなかった。警察でも不審をもち、東京の地から草鞋《わらじ》をはいて地方へ出たのかと思って、それぞれに問いあわせてみたが、千太郎はどこにも草鞋をぬいでいなかった。そんなわけで、モニカの千太郎は愛用のハーモニカ一|挺《ちょう》とともに失踪人の仲間に入ってしまった。
 ヒルミ夫人が結婚生活に入ったのが、それから二ヶ月経った後のことだった。
 万吉郎という五つも年齢下《としした》の男を婿に迎えたわけだが、ヒルミ夫人の見染めただけあって、人形のように顔形のととのった美男子だった。
 いずくんぞ知らんというやつで、この万吉郎なるお婿さまこそ実はモニカの千太郎であったのである。
 そういうといかにもこじつけ話のように聞えるであろう。いくら千太郎がお婿さまに化けても、顔馴染の警官や、元の仲間の者にあえば、ひとめでモニカの千太郎がうまく化けこんでいやがると気がつくと思うだろうが、なかなかそうはゆかない。今までは顔を見ただけでは全く千太郎と見わけのつかない万吉郎だった。つまり万吉郎なるお婿さまは、モニカの千太郎とは全く別な顔をもっていたのである。千太郎もいい男であつたが、万吉郎の顔は、さらにいい男ぶりであり、しかも顔形は全く別の種類に分類されてしかるべきものだった。
 それにも拘《かかわ》らず、万吉郎は千太郎の化けた人間に相違なかったのである。
 では、どういうところから、そういう不思議な顔形の違いが起ったのであろうか。その答は簡単である。ヒルミ夫人の特別研究室のうちで、千太郎の顔は新しく万吉郎の顔に修整されてしまったのである。それこそはヒルミ夫人の劃期的《かっきてき》なアルバイト、田内整形外科術の偉力によるものだった。
「ワタクシハ予《かね》テ世間ニ於テ人間ノ美ト醜トニヨル差別待遇ノ甚《はなは》ダシイノニ大ナル軽蔑ヲ抱イテイタ」とヒルミ夫人はその論文に記《しる》している。「美人ト不美人トノ相違ノ真髄ハ何処《いずこ》ニアリヤト考エルノニ、要スルニ夫《そ》レハ主トシテ眉目《びもく》ノ立体幾何学的問題ニ在ル。眉目ノ寸法、配列等ガ当ヲ得レバ美人トナリ、マタ当ヲ得ザレバ醜人トナル。而《しか》モ美醜間ニ於ケル眉目ノ寸法配列等ノ差タルヤ極メテ僅少《きんしょう》ニ過ギナイ。美人ノ眼ガ僅カ一度傾ケバタチマチ醜人ト化シ、醜人ノ唇僅カ一|糎《センチ》短カケレバ美人ト化スト云ッタ塩梅デアル。左様ナ一度トカ一糎トカ僅少ノ幾何学的問題ニ一生ヲ棒ニフル者ガ少クナイノハ実ニ嗤《わら》ウベキコトデアル。吾ガ整形手術ニ於テハ、夫レ等僅少ナル寸法ヲ短縮スル等ノ技術ハ極メテ容易デアル。凡《およ》ソ人体各部ノ整形手術中、人間ノ顔ホド簡単ニ整形形状変更等ヲナシ得ル部分ハ他ニナイ。殊ニソノ整形ノ効果ノ大ナルコト、他ノ部位ノ比デハナイ。若シ本書ニ説述シタ吾ガ田内整形手術ガ全世界ニ普及セラレタル暁《あかつき》ニハ、世界中ニ只一人ノ醜イ人間モ存在シナクナルデアロウ云々《うんぬん》」
 実に大胆なるヒルミ夫人の所説だった。というよりは、なんという強い自信であろうといった方がいいかもしれない。
 医学博
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