ヒルミ夫人の冷蔵鞄
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)靄《もや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)もう一度|仔細《しさい》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
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或る靄《もや》のふかい朝――
僕はカメラを頸にかけて、幅のひろい高橋《たかばし》のたもとに立っていた。
朝靄のなかに、見上げるような高橋が、女の胸のようなゆるやかな曲線を描いて、眼界を区切っていた。組たてられた鉄橋のビームは、じっとりと水滴に濡れていた。橋を越えた彼方《かなた》には、同じ形をした倉庫の灰色の壁が無言のまま向きあっていたが、途中から靄のなかに融けこんで、いつものようにその遠い端までは見えない。
気象台の予報はうまくあたった。暁方にはかなり濃い靄がたちこめましょう――と、アナウンサーはいったが、そのとおりだ。
朝靄のなかから靴音がして、霜《しも》ふりとカーキー色の職工服が三々五々現れては、また靄のなかに消えてゆく。僕はそういう構図で写真を撮りたいばかりに、こんなに早く橋のたもとに立っているのである。
レンズ・カバーをとって、焦点硝子《しょうてんガラス》の上に落ちる映像にしきりにレバーを動かせていると、誰か僕のうしろにソッと忍びよった者のあるのを意識した。だが――
焦点硝子の上には、橋の向うから突然現れた一台の自動車がうつった。緩々《ゆるゆる》とこっちへ走ってくる。それが実に奇妙な形だった。低いボデーの上に黒い西洋棺桶のようなものが載っている。そして運転しているのは女だった。気品のある鼻すじの高い悧巧《りこう》そうな顔――だがヒステリー的に痩せぎすの女。とにかくその思いがけないスナップ材料に、僕はおもいきり喰い下がって、遂にパシャンとシャッターを切った。
眼をあげて、そこを通りゆく奇妙な荷物を積んだ自動車をもう一度|仔細《しさい》に観察した。エンジン床《ベッド》の低いオープン自動車を操縦するのは、耳目《じもく》の整ったわりに若く見える三十前の女だった。蝋細工のように透きとおった白い顔、そして幾何学的な高い鼻ばしら、漆黒の断髪、喪服のように真黒なドレス。ひと目でインテリとわかる婦人だった。
奇妙な黒い棺桶のような荷物をよく見れば、金色の厳重な錠前が処々《しょしょ》に下りている上、耳が生えているように、丈夫な黒革製の手携《てさげ》ハンドルが一つならずも二つもついていた。
棺桶ではない。どうやら風変りな大鞄であるらしい。
婦人は猟人形のように眉一つ動かさず、徐々に車を走らせて前を通り過ぎた。僕はカメラを頸につるしたまま、次第に遠ざかりゆくその奇異な車を飽かず見送った。
「お気に召しましたか。ねえ旦那」
「ああ、気に入ったね」
「――あれですよ『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』というのは――」
「え、ヒルミ夫人の冷蔵鞄?」
僕はハッとわれにかえった。いつの間にか入ってきた見知らぬ話相手の声に――
「おお君は一体誰だい」
僕はうしろにふりかえって、そこに立っている若い男を見つめた。
「私かネ、わたしはこの街にくっついている煤《すす》みたいな男でさあ」
といって彼は歯のない齦《はぐき》を見せて笑った。
「しかしヒルミ夫人の冷蔵鞄のことについては、この街中で誰よりもよく知っているこの私でさあ。香りの高いコーヒー一杯と、スイス製のチーズをつけたトーストと引換えに、私はあのヒルミ夫人の冷蔵鞄のなかに何が入っているかを話してあげてもいいんですがネ」
そういって、若い男はブルブル慄《ふる》える指を、紫色の下唇にもっていった。
或る高層建築の静かな食堂のうちで、コーヒーとチーズ・トーストとを懐しがる若い男の話――
「さっき御覧になったヒルミ夫人――あれは医学博士の称号をもっている婦人ですよ。専門は整形外科です。しかしそればかりではなく、あらゆる医学に通暁《つうぎょう》しています。世にも稀なる大天才ですね。
田内《たうち》整形外科術――というのは、ヒルミ夫人の誇るべきアルバイトです。ご存知ではないですか。近世の整形外科学は、ヒルミ夫人の手によってすっかり書きかえられてしまったんですよ。どんなに書きかえられたか、それもご存知ないのですか。これからお話してゆくうちに、ひとりでに分ってきましょうが、なにしろここ五ヶ年のヒルミ夫人の努力で、普通にゆけば五十年は充分かかるという進歩をやり上げてしまったのですからネ。まあ政治的文句はそれくらいにして、事実談にうつりましょう。ちょっと事実とは信じられないほどの奇怪なる事件なんですよ」
と、若い男はポツリポツ
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