ヒルミ夫人の立場であったけれど、その狂愛の対象たる万吉郎にとって、それは必ずしも極楽に座している想いではありかねた。
早くいえば、不良少年あがりの万吉郎にとっては、ヒルミ夫人一人を守っていることに倦《あ》き倦《あ》きしてきたのであった。
もちろんヒルミ夫人は、その卓越した治療手腕をもって万吉郎の体力を、かのスーパー弩級《どきゅう》戦艦の出現にたとえてもいいほどの奇蹟的成績をもってすっかり改造してしまったのであった。だから万吉郎は、いまや文字どおり鬼に金棒の強味を加えたわけであった。ヒルミ夫人は自らも過不足なきまでに満足感に達し、万吉郎はいよいよ強豪ぶりを発揮していった。しかも万吉郎の心の隅には、黄いろく萎びた新婚早々のころ、一度ヒルミ夫人に対して抱いた恐怖観念がいつまでも汚点のようにしみこんでいて、それが時にふれ、気がかりな脅威をよび起こし、その脅威はすこしずつヒルミ夫人に対する嫌悪の情に変ってゆくのを、どうすることもできなかった。
万吉郎は、なんとかしてヒルミ夫人の身体から抜けだしたいと思った。といって完全に抜けだしてしまったのでは、こんどは生活の上に大きな脅威をうける。もう彼は、地道にコツコツ働いて、月給五十円也というような小額のサラリーマン生活をする気はなかった。ヒルミ夫人のもとにいて、懐手をしながら三度三度の食事にも事かかず、シーズンごとに新しい背広を作りかえ、そしてちょっと街へ出ても半夜に百円ちかい小遣銭をまきちらすような今の生活を捨てる気は全然なかった。経済状態はそのようにして置いて、只身体だけをヒルミ夫人のもとから解放したいと思っていたのである。
そんな贅沢な願望が、うまく達せられるものであろうか?
だが万吉郎も、ただの燕ではなかった。もとを洗えば、不良仲間での智慧袋であり、参謀頭でもあった。奈翁《ナポレオン》の云い草ではないが、彼の覘《うかが》ったもので、ついぞ彼の手に入らなかったものなんか一つもなかったぐらいだから、或いは頭脳の絶対的よさくらべをして見ると、万吉郎の頭脳はヒルミ夫人のそれに比して、すこし上手《うわて》であったかもしれない。
万吉郎は、この六ヶ敷《むずかし》い問題の解答をひねりだすために、気をかえて、昔彼が好んで徘徊していた大川端へブラリと出かけた。
どす黒い河の水が、バチャンバチャンと石垣を洗っていた。発動機船が、泥をつんだ大きな曳船《ひきぶね》を三つもあとにくっつけて、ゴトゴトと紫の煙を吐きながら川下へ下っていった。鴎《かもめ》が五、六羽、風にふきながされるようにして細長い嘴《くちばし》をカツカツと叩いていた。河口の方からは、時折なまぐさい潮《うしお》の匂いが漂ってくる。
万吉郎は宿題をゆるゆると考えるために、人気のない川添いの砂利置場に腰を下ろした。
なにかこう素晴らしい思いつきというものはないか?
口実をつくって、旅に出ようかとも考えた。だが永くてもせいぜい二、三ヶ月のことであった。一生の永きに比べると、そんな短い期間の解放がなにになろう。
発狂したことにして、病院に入ったことにしてはどうであろう。しかし病院をしらべられるとすぐお尻がわれる。
ではヒルミ夫人を巧みに殺害してはどうであろうか。いや人殺しなんて、およそ万吉郎の趣味にあわないことだった。怪しまれでもして、本当に刑務所に送られてしまえば、そんな大きな犠牲はない。
それでは誰かすこぶるの好男子をさがしだして、不倫を強《し》いるようで悪いが、ヒルミ夫人が恋慕するようにはからってはどうであろうか。やっぱりそれも拙《まず》い。ヒルミ夫人はそんな多情な女ではない。ただ一人の万吉郎を狂愛しているのであって、そうは簡単に男を変えるような夫人ではない。ではこれも駄目。――
万吉郎は無意識に砂利場の礫《こいし》を拾っては河の面に擲《な》げ、また拾っては擲げしていた。
すると突然意外な事件が降って湧いた。万吉郎の前に、河のなかへ落ちこんだ高い石垣がある。その石垣の向うから、不意に人間の首がヌッと現れたのである。
「――よせやい。なんだって俺に石を擲げるんだ。いい気持に、昼寝をしていたのに」
万吉郎は呀《あ》ッと叫んだ。
石垣の下からヌッと現れたその顔――それはひと目でそれと分る若衆の顔だった。石垣の下には、人一人がゴロリと横になれる狭いスペースがあるのであろう。
石垣をのぼってきた男に、煙草を与えなどして、万吉郎は彼を自分の横に座らせた。
「旦那、なんか腹のふくれるものは持ってないかい」
チョコレートではどうであろう。
棒チョコレートを噛《かじ》る若い男と、ボソボソと取りとめない話をしているうちに、思いがけなく万吉郎は一つの素敵なアイデアを思いついた。
「うん、これはいい。どうしてそんなことに気がつかなかった
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