分析の爪をたてた。
「――そうだった。そういう一つの特殊な場合が有り得る。しかもそう考えることは、今日ではもう常識範囲ではないか」
夫人はそこで長大息《ちょうたいそく》した。
恐ろしいことだ。恐ろしいアイデアだ。恐ろしい係蹄《わな》だ。
夫人をして、恐ろしい係蹄だと叫ばしめたものは何だったか。――それは愛する夫万吉郎が果して真《まこと》の万吉郎であろうかという恐ろしい疑惑であった。
およそこの世に、顔も姿も、何から何までそっくり同じ人間が二人とあろう筈がない――と、確かにその昔には云えた。しかし今日において、それと同じことが確かに云えるだろうか、同じことが信ぜられるだろうか。いやいや、今日においては――すくなくともヒルミ夫人の田内新整形外科術が大なる成功をおさめてから以来においては、そういうことは全く信じられなくなったのだ。
丁度|死面《デスマスク》をとるときのように、一つの原型がありさえすれば、それと全く同じ顔はいくつでも簡単にできるようになっているのだ。もちろんそれは、ヒルミ夫人の開いた新外科術の働きなくしては云いえないことだった。
ヒルミ夫人の新外科術が信頼すべきものであることはヒルミ夫人自身が一番よく知っていた。しかもこの場合、夫人自身が創生したその信頼すべき手術学のために、夫人が生命をかけている愛の偶像を、自らの手によって破壊しさらねばならぬとは、なんたる皮肉な出来事であろうか。
わが掌中《しょうちゅう》にしっかり握っていると信じていたわが夫は、はたして真《まこと》の万吉郎であろうか。はたして万吉郎か、それとも万吉郎を模倣した偽者か。
夫人は自らの作りあげた入神《にゅうしん》の技が、かくも自らを苦しめるものとは今の今まで考えなかった。もしこんなことがあると知っていたら、もっと不完全な程度にとどめるのがよかった。神の作りたまえる人間と、寸分たがわぬ模写人間を作ろうとしたことが、既に神に対する取りかえしのつかない冒涜《ぼうとく》だったかも知れない。
ヒルミ夫人の瞼《まぶた》に、二十数年この方跡枯れていた涙が、間歇泉《かんけつせん》のようにどッと湧いてきた。
夫人は長椅子の上にガバと伏し、両肩をうちふるわせ、幼童のように声をたてて、激しく鳴咽《おえつ》しはじめた。
そのことあって以来、ヒルミ夫人の頬が俄《にわ》かに痩《こ》け、瞼の下に黝《
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