とりかえしていた。ときにいつもの口調で怒鳴りつけられることもあったが後で室《へや》に下ったときには、夫の機嫌はおかしいほど好転するのであった。ヒルミ夫人の考えではやがて昔のような生活の満足感がとりもどされるにちがいないと期待を持つようになった。
或る日のこと、ヒルミ夫人はただひとりで研究室にいた。彼女はその日、なんとはなく疲れを覚えるので、長椅子の上に豊満なる肢体をのせて、ジッと目をとじていた。前にはよくこうして睡眠をとったものである。夫人は久しぶりにしばらくここで睡ってみたいと思った。
ところがいざ目を閉じてみると、どうしたものか、逆に頭が冴々《さえざえ》としてきて、睡るどころではなかった。
「――神経衰弱かもしれない」
ヒルミ夫人は微かに頭痛のする額をソッとおさえた。
睡れなくなった夫人は、それでもジッと横になっていた。眼だけパッチリ明いて、動かぬ自分の姿態をながめていると、まるでそこに他人の屍体が転がっているように思えてくる。
ヒルミ夫人は、なんだかますます妙な気持になって来た。脳髄だけが、頭蓋骨のなかからポイととびだしてきそうな気がした。その脳髄にはいろいろな事象が、まるで急廻転する万華鏡のように現れては消え、消えてはまた変って現れるのであった。その目まぐるしいフラッシュ集のなかにヒルミ夫人は不図《ふと》恐ろしき一つの幻影を見た。それは愛する夫万吉郎そっくりの男が二人、手をつなぎ合って立っている場面だった。
「ああア、もしや本当にそうなのではなかろうか。いやそんなことがあってたまるものではない。――」
ヒルミ夫人は、その恐ろしき幻影を瞬時も早くかき消そうと焦せったが、しかもその幻影ははなはだ意地わるく、だんだんと濃く浮びあがってくるのであった。そのはてには、二人の万吉郎は夫人の方を指してカラカラと笑いころげるのであった。
なんという恐ろしい幻影だろう。
愛する夫が、一人ならず二人もあっていいだろうか。あの水々しい頭髪、秀でた額、凛々《りり》しい眉、涼しそうなる眼、形のいい鼻、濡れたような赤い唇、豊な頬、魅力のある耳殻――そういうものをそっくりそのまま備えた別の男があっていいものだろうか。
夫人は急にブルブルと寒む気を感じた。
だが夫人の明徹な脳髄は、一方に於て恐れ戦《おのの》き、そしてまた一方に於てその意味なき幻影を意味づけようとして鋭き
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