ろう。ああなんと跳躍的進歩をとげた大医学よ。――」
 万吉郎は悦びのあまり、男の手をとってひき起し砂利場の上で共に抱きあって狂喜乱舞したとは、莫迦莫迦《ばかばか》しいほどの悦び方だ。
「さあ君、僕と一緒にくるんだ。君のために素晴らしい儲け話を教えてやる。それに女も有るんだ。水のたれるような美味《おいし》そうな、そして素敵に匂いの高い女なんだ」
 男は大口をあけて呆気《あっけ》にとられていた。
 万吉郎のビッグ・アイデアとはどんなことであったろう?
 さすがに利発なヒルミ夫人だった。
 彼女は早くも、若い夫万吉郎の仇《あだ》し心に気がついた。
 と云って、万吉郎もすでに知りつくしているように、ヒルミ夫人はいかに若い夫が仇しごとをしようとも、彼を離別するなどとは思いもよらぬことだった。いかなる手段に訴えても、恋しい夫万吉郎を自分の傍にひきとめて置かねばならないと思った。もし万吉郎が、自分のそばを一日でも離れていったときには、自分はきっと気が変になってしまうであろう。
 そんな風に、可憐なるヒルミ夫人は若き夫万吉郎のことを思いつめていたのである。
 臨床実験のことも、病院の経営のことも、いまや彼女の脳裡《のうり》から次第次第に離れていった。万吉郎を家から抜けださせないこと、そして他の女に奪われないこと、その二つのことがらを常々心にかけて苦労のたけをつくしていた。
 だから、たまたま万吉郎が外出するときなど、他人には到底みせられないような大騒ぎが起った。ここには明細にかきかねるが、とにかくヒルミ夫人は万吉郎の身体に蛭《ひる》のように吸いついて、容易に離れようともしなかったのである。万吉郎はちょっと髪床《とこや》にゆくのだというのに、このばかばかしい騒ぎであった。
 そんなことが、万吉郎の心をヒルミ夫人からずんずん放していった。それはそうなるのが当然すぎるほど当然のことだったけれどまたたしかに人間の情けの世界の悲劇でもあった。
「あなた、よくまああたしのところへ帰ってきて下すって」
 夫が帰ってくると、ヒルミ夫人はひと目も憚《はばか》らず、潜々《さめざめ》と涙をながして、逞《たくま》しき夫の胸にすがりつくのであった。
 そうしたヒルミ夫人の貞節が、万吉郎に響いたのであろうか、ヒルミ夫人の観察によればこの頃夫の万吉郎は、すっかり人が違ったようにすべての行為に関し純真さと熱情とを
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