くろず》んだ隈が浮びでたのも、まことに無理ならぬことであった。
 ひとりで部屋のうちに籠っていれば、疳《かん》にうち顫《ふる》う皓《しろ》い歯列《はならび》は、いつしか唇を噛み破って真赤な血に染み、軟かな頭髪は指先で激しぐかき※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られて蓬《よもぎ》のように乱れ、そのすさまじい形相は地獄に陥《お》ちた幽鬼のように見えた。
 それにも拘らず怜悧《りこう》なるヒルミ夫人は、夫万吉郎を傍に迎えるというときは、まるで別人のようにキチンと身づくろいをし、玉のような温顔をもって迎えるのであった。秋毫《しゅうごう》も夫万吉郎に、かき乱れたる自分の心の中《うち》を気どられるような愚はしなかった。
 しかもその際ヒルミ夫人は、その温容なマスクの下から、夫万吉郎の容姿や挙動について、鵜《う》の毛をついたほどの微小なことにも鋭い観察を怠らなかった。もしも万一、その夫が真《まこと》の万吉郎でない証拠を発見したときは、彼女は直ちに躍りかかって、その偽の万吉郎の脳天を一撃のもとに打ち砕く決心だった。
 しかし夫は、なかなか尻尾《しっぽ》を出さなかった。尻尾を出さないということは、夫とかしずく男が、依然として真の万吉郎であるという証明にもなったが、同時にまたヒルミ夫人は自らの神経を刺戟して、その男が巧みにも真の万吉郎そっくりに化け終《おお》せているのではないかと、もう一歩鋭い観察に全身の精魂を使いはたさなければ気がすまなかった。げに無間地獄とは、このような夫人の心境のことをさして云うのであるかもしれない。
 煩悶は日毎夜毎《ひごとよごと》につづいていった。疑惑はまた疑惑を生み混乱の波紋は日を追うて大きく拡がっていった。
 そしてとうとう最後には、もう紙一重でヒルミ夫人の脳が狂うか否かというところまで押しつめられた。
 夫人は、灯もない夕暮の自室に、木乃伊《ミイラ》のように痩《や》せ細った躰《からだ》を石油箱の上に腰うちかけて、いつまでもジッと考えこんでいた。もうここで敗北して発狂するか、それとも思いがけないアイデアを得て辛《から》くも常人地帯に踏みとどまるか。
「あ、――」
 夫人は暗闇のなかに、一声うめいた。
 天来のアイデアが、キラリと夫人の脳裏に閃《ひらめ》いたのであった。
「あ、救われるかもしれない」
 リトマス試験紙が、青から赤に変るよう
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