ネオン横丁殺人事件
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)嚔《くしゃみ》を
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)徹夜|麻雀《マージャン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#丸付き印、245−下−8]
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1
近頃での一番さむい夜だった。
暦のうちでは、まだ秋のなかに数えられる日だったけれど、太陽の黒点のせいでもあろうか、寒暖計の水銀柱はグンと下の方へ縮《ちぢ》[#ルビの「ちぢ」は底本では「ちじ」]んでしまい、その夜更け、戸外に或いは立ち番をし、或いは黙々として歩行し、或いは軒下に睡りかけていた連中の誰も彼もは、公平にたてつづけの嚔《くしゃみ》を発し、
「ウウウン、今夜は莫迦《ばか》に冷えやがる」
といったような意味の独言を吐いたのだった。
猟奇趣味が高じて道楽に素人《しろうと》探偵をやっているという変り種の青年理学士、帆村荘六君も、丁度この戸外組の一人だった。彼は今、午前三時半における新宿のブロードウェイの入口にさしかかったところである。
大東京の心臓がここに埋まっていると謂われる繁栄の新宿街も、この時間には、まるで湖の底に沈んだ廃都のような感があった。グロテスクな装飾をもった背の高い建物は、煤色《すすいろ》の夜霧のなかに、ブルブル震えながら立ち並んでいた。ずっと向うの十字路には、架空式の強い燭力の電灯が一つ、消しわすれたように點いていて、そのまわりだけを氷山のように白くパッと照しだしていた。
アスファルトの舗道に、凍りつきそうな靴を、とられまいとして、もぐような足どりの帆村荘六だった。
「鐘わァ鳴ァる、鐘わァ鳴ァるゥ。マロニィエのオ……」
どうやら彼はいい気持でいるらしい。傍へよってみると、ジョニー・ウォーカーの香がプンプンすることであろう。どこから今時分でてきたのか知らないが、多分代々木あたりの友人の宅での徹夜|麻雀《マージャン》の席から、例の病で真夜中の街へ滑りだしたものであろう。
身体がヨロヨロと横へ傾いた拍子に、灯のついていない街灯の鉄柱がブーンと向うから飛んできたように思った。こいつは奇怪なりと、やッとそいつを両腕でうけとめたが、ゴツリと鈍い音がして頭部をぶっつけてしまった。その拍子に正気にかえった。
「おお、つめたい」
そう言って彼は、両手を鉄柱から離した。抱きついた鉄柱は氷のように冷えていた。うっかりそれを抱えた両手は急に熱を奪われて感覚を失い木乃伊《ミイラ》の手のように収縮したのを感じた。ひょいと眼を高くあげると、両側の建物のおでこのところに、氷柱《つらら》のようなものが白くつめたく光って見えるのだった。
「氷柱ができるような夜かいな」
眼をこすりこすり幾度も見直しているうちに、帆村はウフウフ笑いだした。
「なアんだ、ネオンサインか。そして此処は正しくネオン横丁。わしゃ、すこし酔ってるね」
それは、新宿第一のカフェ街、通称ネオン横丁とよばれる通りだった。氷柱と見えたのは、消えているネオンサインの硝子管だった。これがまだ宵のうちであれば、赤、青、緑の色彩うるわしい暈光《うんこう》が両側の軒並に、さまざまのカフェ名や、渦巻や、風車や、カクテル・グラスの形を縫いだして、このネオン横丁の入口に立ったものは、その絢爛《けんらん》たる空間美に、呀《あ》ッと歎声を発せずにはいられない筈である。だが唯今は丑満時をすこし廻った午前四時ちかく、泥のように熟睡しているネオン横丁を、それと見まちがえたのは、あながち帆村荘六が酔っ払っているせいばかりでもなかった。
彼は鉄柱の傍を離れると、なおも蹌踉《よろよろ》と歩みを運んで、とうとうネオン横丁をとおり抜け、その辻の薄暗い光の下に暫く佇立していたが、決心がついたのでもあろうか、その儘まっすぐに三越裏の壁ぎわを這うようにつたわり、架空灯があかるく點いているムサシノ館前の十字路の、丁度真ン中まで辿りついたのだった。
「おや、なんだろう……」
夜の静寂を破って、ドターンというような音響が、突然彼の鼓膜をうった。それは急にどんなものがたてた音であると言い当てられない程の、やや鈍い、さまで大きくない音であって、どうやら、彼の背後一二丁のところから響いてきたように思われたのだった。彼は半ば探偵意識を活躍させながら、一方ではその意識を浅ましく舌打ちしながら、後方をずっと見渡して、またもや別な物音がするかしらと耳を澄ましていたが、それから後はカタリとも音がせず、先刻鼓膜をうった音でさえ静寂の中にとけこんで、あれは自分の耳鳴りであったろうかと疑われるのだった。五分、六分、七分……。
「呀《あ》ッ、怪しいやつ……」
ネオン横丁の出口にあたる四ツ角の、薄暗い光の下に、何者とも知れぬ人影がパッと映ったが、忽ち身を飜して電車道の横丁へ走りこんだ。その人影は帆村荘六の醒めきらぬ眼にハッキリした印象をのこさなかったが、和服を纏《まと》った長身の男らしく思われた。
「事件だ!」
彼はそう叫ぶと、今度こそは本当に正気になって、あの人影がうつったネオン横丁の出口をめがけてバタバタと駈けだした。その四ツ角から左に曲って、人影を追ったがどうしたものか、どこにもその姿は見当らなかった。電車道を越えて、小路の多い大久保の方へ逃げこんだものと見える。そうだとすると、追跡は全く不可能になる。
帆村は追跡をあきらめて、元の横丁へ、とってかえした。いまの人影は、どこから出てきたのだろう。それから例の怪音は、どの家から発したのだろう。どこかそのあたりに、今にも屍《しかばね》の匂いがプーンとして来そうに思われた。
彼は怪音の出所を、ネオン横丁と断定した。それでその横丁にとびこむと、向うの端まで家並を、ザッと一と通り睨みながら、通りぬけたが、入口の扉や、窓などが開いている家は一軒もなかった。
(こいつは間違ったかな)
そう思いながら、こんどは両側の窓下と戸口を一々丁寧に見てゆくことにした。彼の身躾《みだしな》みの一つであるポケット・ランプをパッと點けると、まずネオン横丁の入口に最も近いカフェ・オソメの前に跼《しゃが》んで戸口の前や、ステンド・グラスの入った窓枠《まどわく》などを照し、なにか異常はないかとさがしたが、そこには血潮も垂れていなければ、泥靴の生々しい痕もない。扉は押してもビクとも動かなかった。ではこのカフェ・オソメも大丈夫であろう。こんな風に、隣りから隣りのカフェへと、表口を一々しらべていった。だが、何処にも異状が見当らなかったのだった。
「人殺しィ。うわぁ、誰かきて……」
イキナリ帆村の頭の上で、婦人の金切声があった。それは丁度、四軒目のカフェ・アルゴンの前だった。悲鳴は、その三階と覚しいあたりから発したようだった。
「うん、果《はた》して事件だ。さっきのは、するとピストルの音だった」
帆村荘六の酔いは完全に醒めてしまった。彼はドシンドシンと、カフェ・アルゴンの扉に身をぶっつけた。扉は意外に苦もなくパタリと開いた。近所では、やっと気がついたものとみえて、窓をあける音や、人声や、下駄のかち合う音が、そこら近所に騒々しく湧きおこった。
帆村が一歩足を踏みこんだところで、靴先にカタリと当たる何物かを蹴とばした。懐中電灯で探してみると、それはダンディ好みの點火器《ライター》だった。彼は手帛《ハンカチ》をだして、それを拾いあげると、ポケットに収いこんだ。これも事件の謎をとく何かの材料かもしれない。
店をとおりすぎ、洋酒瓶の並ぶうしろに、三階へつづく螺旋階段《らせんかいだん》があった。二階へも別な階段があったが、二階と三階とを通ずる階段はなかった。帆村は螺旋階段に手をかけると、スルスル三階へ登っていった。
「やあ、――」
三階をのぼりきった室には、けばけばしい長襦袢を着た三十ぢかい肥肉《ふとりじし》の女が、桃色の夢がまだ漂っているようなフカフカした寝床の上に倒れていた。その横に、も一つ寝床があるが、そこに寝ている人の姿はなかった。
「君、しっかりなさい、どうしたんです」
帆村は女の艶《なまめ》かしい肩を叩いた。
すると女は、ますます顔を夜具の中に埋めるようにして全身を戦《おのの》かせながら、左手をツとあげて、無言のまま表口寄りの隣室を指すのだった。さてはこの隣に、屍体が転っているのであるか。
「おお、これは――」
帆村は、隣室の襖に手をかけたが、これは頑として動かなかった。よくみると、襖は襖だが、特製のもので、こっちからみると紙が貼ってあるが、裏の方は檜材かなにかの堅い板戸になっている。その板戸に内部から錠前がかかっているのだった。なんという厳重なしまりをしてある室なんだろう。
「君、鍵はありませんか」
女は布団に顔を伏せたまま、かぶりを振るばかりだった。帆村は、ジリジリしてくる心をやっと押えつけながら、室のうちを、あちこちと見廻したが、襖がすこし開きかけている押入に気がつくと、急に眼を輝かしたのだった。
それは江戸川乱歩が「屋根裏の散歩者」を書いて以来、開けた自由通路だった。押入の襖を開くと、女給の化粧道具や僅の梱などが抛《ほう》りこまれてある二重棚の上にとびあがった帆村荘六は、天井板を一枚外して天井裏にもぐりこんだ。それから、厳重なしまり[#「しまり」に傍点]のある隣室と思われる方向へ、腹這いになってすすんでいったが、電線のようなものに、片手を挟まれた拍子に懐中電灯をパタリと落してしまった。
「ちえッ!」
光は消えて、帆村の眼は眩んだ。
イライラしてくる数十秒間、やっと眼が闇に慣れてきた。
すると、眼の前に、ボーッと光る猫の眼玉のようなものが見えるではないか。ギョッとして反射的に身を引いたが、よく見ると何のことだ、天井裏の小さな節穴だった。
(こいつはいいものがめっかった)
帆村は、節穴の方に、ジリジリと這いよった。節穴は思ったより大きく一銭銅貨大もあった。それに片眼をあてて、ソッと下の方を覗いてみた。
「呀《あ》ッ」
孔の真下には、果して、顔面を真紅に血潮でいろどった一個の惨死体が、ほのぐらい室内灯の光に照しだされて、横たわっていたのだった。それは、年の頃は五十がらみの男だった。彼は、寝床の中に、天井の方を真直向いて睡っているところを、射たれたものらしい。傷は致命傷だったと見えて苦しみもがいた様子は一向になかった。
折から下では、ドシンドシンと凄じい音がして、その度に天井までビリリビリリと響いてくるのだった。警官たちが駈けつけて、いよいよ、厳重な板戸をうち破っているのだろう。
帆村は屋根裏へ這いあがったついでに、そのあたりの様子をみて置きたいと思った。それで懐中電灯を落したあたりを手さぐりで探してみた。まず手にあたったのは、柱の切り屑のような木片だった。のけようと思ってひっぱったが、しっかり天井裏にくっついている。その横の方に手を廻すと、ヒィヤリと金具らしいものが、指先にふれたので、それをグッと掌のうちに握った。
「おや、これは懐中電灯ではない」
ズシリと重みのある、そして大変冷たい物体だった。暗闇の中に、仔細に手さぐりをしてみると、正しくそれはピストルだった。
「こんなところに、ピストルが落ちていた」
彼は一瞬にして或る場面を想像した。この屋根裏に忍びこんだ犯人が、この節穴から、下の老人を狙いうったのであると。では先刻ムサシノ館前の十字路で聞いたように思った音響は、このピストルの音だったのかも知れない。
「オイ、誰かッ。降りてこい!」
いきなりサッと明るい光線が帆村の横顔を照した。警官が、さっきのぼって来た押入の天井裏から、こちらを誰何《すいか》したのだった。
「僕は……」
「文句があるなら後でいえ。サッサと降りて来ないと、ぶっ放すぞ」
本気にぶっ放すかも知れない警官の意気ごみだった。帆村は苦笑いをして、それ以上の頑張りをやめ、拾ったピストルだけを獲物に、そのま
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