ま引返したのだった。
 警視庁から捜査課長大江山警部などの、刑事部首脳が駆けつけてくるまでの帆村荘六は、滑稽な惨めさに封鎖されていた。
「外山君」と大江山課長は、その警官の名を呼んだ。
「帆村探偵の素状を一応調査しておいた方がいいだろうかね」そういって警官の非礼を婉曲に帆村荘六に詫びるのだった。
 さて正式の取調が始まった。
 殺されたのは、このカフェ・アルゴンの主人である虫尾兵作《むしおへいさく》だった。
 その隣室にいた女性は、同人の妾である立花おみねと呼ぶ者だった。
 誰が殺したか。
 殺した手段は、帆村が発見したピストルによることは、大体明らかであって、なお屍体解剖の上で確かめられる手筈になった。では何物が、天井裏にのぼって、あの節穴からカフェ・アルゴンの大将虫尾兵作を狙い射ちにしたのか。
「おみねさん」と大江山警部は、悄気《しょげ》きっている大将の妾に言葉をかけた。
「この部屋には寝床が二つとってあるが、一つはお前さんの分で、もう一つは誰の分なんだい」
「ハイ。それはアノ……」
「はっきり言いなさい」
「ハ、それは、なんでございます、うちのナンバー・ワンの女給、ゆかり[#「ゆかり」に傍点]の寝床なんです」
「ウンそうか。で、そのゆかり[#「ゆかり」に傍点]さんは見えないようだが、どうしたんだい」
「それがちょっと、アノ、昨夜出たっきり帰ってまいりませんので……」
「なァ、おみねさん。胡麻化《ごまか》しちゃいけないよ。敷っぱなしの寝床か、人が寝ていた寝床か、ぐらいは、警視庁のおまわり[#「おまわり」に傍点]さんにも見分けがつくんだよ」
 このとき帆村の頭のなかには、ネオン横丁の出口のところで見た怪しの人影のことがハッキリ浮かんできたのだった。
「言えないね」と大江山警部は顎《あご》をなでた。
「じゃ別のことを訊くが、大将は誰かに恨みを買っていたようなことは無かったかね」
「それはございます。妾の口から申しますのも何でございますが、ここから四軒目のカフェ・オソメの旦那、女坂染吉がたいへんいけないんでございますよ。このネオン横丁で、毎日のように啀《いが》み合っているのは、うちの人と女坂の旦那なんです。いつだかも、脅迫状なんかよこしましてね」
「脅迫状を――。そいつは何処にある」
「主人が机のひきだしにしまったようですが……」と言っておみねは机をかきまわしていたが「あ、ありました、これです」
「どれどれ」大江山警部は、状袋に入った脅迫状というのを取り上げて、声を出してよんだ。
[#ここから3字下げ、罫囲み]
すぐネオン横丁から出てゆけ。ゆかないと、さむい日に、てめいのいのちは、おしゃかになるぞ。
[#ここで字下げ終わり]
「なんだか、おかしな文句だな。さむい日[#「さむい日」に傍点]と断ってあるが、こいつは当っている。おしゃかになる[#「おしゃかになる」に傍点]というのは『毀《こわ》す』という隠語だがこれは工場なんかで使われる言葉だ。――おみねさん、この脅迫状には名前がないが、どうして女坂染吉とやらが出したとわかるんだい」
「だって、外には、そんな手紙をよこす人なんて、ありませんわ」
「そいつは、何ともいえないね」と警部は言って、ちょっと考え込んでいたが、「この辺で工場へ行っている人とか、職工あがりという種類の人を知らないかね」
「ああ、あいつかも知れません。ネオン・サイン屋の一平です。あれはこの横丁の地廻りで、元職工をしてたので、ネオンをやってるんです。うちのネオンも、一平が直しに来ます」
「ふうん。一平と虫尾とはどんな交際だい」
「さあ、別にききませんけれど……」
 おみねは、やっと気分をとりもどしてきたようだった。
「おみねさん」そう言って口をはさんだのは先刻から黙って横にきいていた帆村荘六だった。
「その一平というのはどんな身体の男なんですか」
「ネオン屋の一平は、背が高くて、ガニ股でいつも青い顔をしていますよ」
「ほほう、背が高いんですね」帆村は、薄暗い灯影で見た男も背が高かったのを思い出した。
「では、あなたはこんなものを御存知ありませんか」
 そういって此処の入口で拾ったライターを掌の上にのせて、おみねの前にさしだした。
「あッ、それは――」それを一と目みたとき今まで明るかったおみねの顔色が、さッと蒼くなり全身に軽い痙攣《けいれん》までがおこったのだった。


     2


「このライターは誰のです?」帆村荘六は、おみねが驚駭《きょうがく》にうちふるえている前に、このカフェ・アルゴンの入口で拾ったライターをさし示した。
「……い、一平のでしょう」と、おみね。
「なに一平のライターだって」大江山警部は身体を前へのり出した。
「おみねさん、君が先刻返事をしてくれなかったことがあったね。この二つの寝床の一つは君が寝ていたが、今一つには誰が寝ていたか。それはナンバー・ワンの女給ゆかり[#「ゆかり」に傍点]の布団なんだろうが、入ってたのは別人だった。いいかね。この帆村君は、さっき四時前に、ここから長身の男が逃げてゆくのを発見したんだ。つづいてライターをこの家のうちで拾った。すると、こっちの布団(と、一方の寝床を指しながら)には、その背の高い、そのライターの持ち主が寝ていたのだ。もしそのライターがネオン屋の一平のだったら、お前さんはここで一平と寝てたことになるよ、それでいいかい」
「まァ、誰が一平なんかと……」
「もう一つお前さんに見せたいものがある」
 そう言って大江山警部は帆村に目交せをして屋根裏で拾ったピストルをおみねの前につきつけた。
「このピストルを知らないかい」
「ああ、これは……。これこそ一平のもってたピストルです。あいつは、これでいつかあたしのことを……。あたしのことを……」
 おみねはなにを思い出したものか、ヒステリックに喚きだした。
「やっぱし、あいつだ。あいつだ。一平が主人を撃ったのです。その外に犯人はありません。そうなんですよオ、そうなんです」
「これ、おみねさん、しっかりしないか。おい外山君、この婦人を階下へ連れてって休ませてやれ」
 おみねが去ると、三階には係官一行と帆村探偵とだけが残った形になった。
「どうだ帆村君」大江山警部はにこやかに呼びかけた。
「これは単なる痴情関係で、一平が女給ゆかり[#「ゆかり」に傍点]の身代りにこの寝床にもぐっていて、頃合を見はからって、屋根裏にのぼり、主人の虫尾を射って逃げ、その途中で入口にライターを落とし四つ辻では君に見咎《みとが》められて、逃走したと解釈してはどうかね」
「だが、同じ逃げるものなら、どうして寝床にぬくぬくと入っていたのでしょう。隠れるところはカーテンの後でも、押入の中でもいくらもありますよ」と帆村は反駁《はんばく》したのだった。
「うん、そいつはこう考えてはどうか。すこし穿《うが》ちすぎるが、あの夜、おみねは虫尾の寝床で彼の用事を果すと、この部屋に退いた。爺さん便所に立つときに、隣りの布団をみて(ゆかりの奴、寒がりだから頭から布団をかぶって寝てやがる)と思った。それから再び自分の室に入ると、脅迫状が恐いものだから、厳重に錠をおろして寝た。そこでおみねは、先客の一平が寝ているゆかりの布団へもぐりこんで、午前三時半までいた。それから頃合よしというのであの犯行が始まった。――」
「それにしても午前四時近くの犯行は、すこし遅すぎますよ」
「なあに、一平が脅迫状に寒い日にやっつけると書いた。一日のうちでも一番寒い時刻というのは午前四時ごろだ。で、合っているよ」
「えらいことを課長さんは御存知ですね、一日のうちで午前四時近くが、一番気温が低いなんて。それはそれとして、僕にはどうもぴったりしませんね。もう一つ気になるのは、ドーンとピストルが鳴ってから犯人が逃げだすまでの時間が、十分間ちかくもありましたが、これは犯罪をやった者の行動としては、すこし機敏を欠いていると思うです。タップリみても三分間あれば充分の筈です。しかも犯人は十分もかかりながら遽《あわ》てくさってライターを落とし、おみねさんは胡麻化《ごまか》すにことかいて、ゆかりの寝床を直すことさえ気がつかなかった。これから見ても両人は余程あわてていたんです。計画的な殺人なら、なにもそんなに泡を食う筈はないのです」
「うむ、すると君の結論は、どうなのだ」
「僕にはまだ結論が出ません」と帆村は首をふって言った。
「だが、この事件を解くにはもっと沢山の関係者がでてこないかぎり、三次方程式の答えを、たった二つの方程式から求めるのと同じに、不可能のことです」
「ほほう、すると、君は、ゆかりのことなんかも怪しいと見るかね」
 そこへドタドタと跫音がして、さっきの警官外山が上ってきた。
「課長どの、唯今、女給のゆかりが、こっそり帰ってきたのを、ここへひっぱりあげて参りました」
「なに、ゆかりというナンバー・ワンが……」
 ふりかえって見ると、その階段の上り口に高価な毛皮の外套を着た、ちょっとみると、入江たか子のような洋装の娘が立っていた。
「おお、ゆかりさんか、ちょっとこっちへ来て下さい」
 物馴れた大江山警部は、こともなげに、彼女をさしまねいたのだった。
「あなた、昨夜、何時ころから出て、どこへ行ってました、叱るわけじゃないから、ドンドン言ってください」
「あたし、あのウなんですノ、昨夜は、ちょっと外泊したんですが……」と、彼女は行末を契《ちぎ》ったNという青年と、多摩川の岸にあるH風呂へ泊りに行ったことを、真直ぐに告白した。そうして、午前五時近く暁の露を吹きとばしながら自動車で此処まで帰ってきたのだと言った。
(ウン、もう夜明けだ)
 帆村は、いつしか白く明るい光線が忍びこんで来た室内を、もの珍しそうに眺めまわしたのだった。
「あなたに、ちょいと見て貰いたいものがあるんだが、このピストルと、ライターに見覚えが無いですか」と大江山警部がいった。
「このピストルですね、オヤジを射ったのは。さあ、見覚えがありませんね。こっちのライターは……おや、これは、あの人のだ」そう言って、彼女はライターをキュッと掌のうちに握ると、言おうか言うまいかと思案をするような眼付をして、課長の顔をチラリと見た。
「おみねさんが教えてくれたんだがね」
「まあ、もう白状しちゃったんですか。そいじゃ私が言うまでも、これは銀さんのよ」
「なに、銀さん」警部はキュッと口を結んだ。
「銀さんって誰のことかい」
「おや、マダムは銀さんのだと言わなかったの、まァ悪いことをした。でも、こうなったらしょうがないわ、銀さんッて、マダムのいい人よ、木村銀太といって、ゲリー・クーパーみたいな、のっぽさんよ」
「一平と、その銀太君とは、どっちが背が高いんですか」と、横合から帆村がきいた。
「それはね」と、ゆかりは、新手の質問者の方を見てちょっと顔を赤くして言った。
「どっちもどっちののっぽですわ」
「銀太というのは、ここへもちょくちょく忍んで来るだろうね」大江山警部は訊いた。
「私が、いいだし[#「だし」に傍点]につかわれてるのよ」そう言って彼女は寝床の一つを指して鼻の先でフフンと笑った。
「いやその位で、ありがとう」
 警部は外山に、彼女を下げるように目交せした。二人は又元の階段をトコトコと降りていった。
「いよいよ足りなかった最後の方程式がみつかったようだね、帆村君」
「そうですね」
「おみねと、その情夫の木村銀太との共謀なんだ。さっき一平が寝ていたと思ったのはあれは銀太なんだ。君が見た人影ってのもネ、ありゃ銀太なんだよ。こうなるとピストルも誰のものだか判ったもんじゃないよ。一平からピストルを盗むことだって出来る」
「僕はそうは思いませんね。今の話で、おみねと、こっちの寝床に忍びこんでいた情夫の銀太とが犯行に関係のないということが判ったんです」
「そりゃまた、どうして」警部は聞きかえした。
「おみねと銀太が一緒に寝ているところに、思いがけなくあのピストルの音がしたので、二人は吃驚《びっくり》して遽《あわ》てだしたのですよ。銀太が居てはかかり合い
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