になるから、おみねは銀太を逃がしたのです、銀太は裸の上に着物を着直して、いろんな持ちものを懐にねじこんで逃げるうちに、あのライターを落としたんです。銀太が相当の道程を逃げたころを見はからって、マダムのおみねが『人殺しッ』と怒鳴ったんです」
「すると、あのピストルは、誰が射ったことになるんだい」
「調べてみなければわかりませんが、多分ネオン屋の一平が射ったんでしょう。カフェ・オソメの女坂も怪しいですがね」
「そうかね。僕はさっき言ったように、情夫とおみねの実演だと思うよ。とにかく、他の連中の動静も多田刑事に調べにやったからもう直ぐ判るだろう」
その話の半ばへ、噂の多田刑事が、ヒョくり顔を出した。
「課長、女坂染吉は家に居ましたよ。昨夜十二時から一歩も外へ出なかったそうです。腹が下ったとかで、夜っぴて女房に、腹をさすらせたり、足をもませたりしていたそうです」
「重宝な現場不在証明《アリバイ》ができたものだな」と課長は、薄笑いをした。
「ゆかりのことはH風呂にきいて午前四時半まで、Nという男と滞在していたことが判りました。それから大久保一平、あのネオン屋ですね、あいつについちゃ意外なことがあるです」
「ほほう、どうしたというんだ」
「あいつの家を叩きおこしてみましたが、昨夜は夕から出たっきり、朝方まで、とうとう帰って来なかったんです」
「それで……」
「それでこいつは怪しいと思って、帰りがけに淀橋署に、ちょっと寄って、偶然一平のことを聞いてみましたところ、意外にも一平は上野署に留置されていることが判ったんです」
「なんだ、一平は上野に抛りこまれているって?」課長は不審にたえぬという顔付をするのだった。
「実は一平さん、昨夜十二時ごろから、山下のおでん屋の屋台に噛《かじ》りついて、徳利を十何本とか倒して、くだをまいたんだそうです。揚句の果、午前二時近くになって、店をしまうから帰って来れと、屋台の親爺が言うと、なにを生意気な、というので、おでん屋の屋台をゆすぶって、到頭そいつを往来に、ぶっ倒しちまったんです。そこで上野署へ一晩留置ということになったんですが、身柄は今朝五時半釈放されました」
「そうか、こいつは又、素晴らしい現場不在証明《アリバイ》だ。ねえ帆村君、あのピストルが屋根裏でズドンと鳴った頃には、一平の奴上野署の豚箱のなかで、虱に噛まれていたらしいよ」
「……」帆村は黙りこくっていた。
「それで多田君」と警部は刑事の方を向いて言った。
「木村銀太という男の行方をしらべて貰いたい。彼奴はマダムのおみねと共謀して大将の寝首を掻いたらしいんだ。――さア、そこらで室調《へやしらべ》を、便利な階下へうつすことにしようじゃないか」
帆村荘六の面目玉は丸潰れだった。彼が犯人と指摘した人物は、皮肉にも、警察署の留置場に一と晩送って、この上ないアリバイを拵えていたのだった。帆村に、如何なる整然たる推理があっても、かのアリバイの事実はそれを木ッ葉微塵に吹きとばしてしまったといってよい。
(だが、もしや……)と帆村は螺旋階段を静かに下におりながら、なお諦めかねる思索にとりすがった。
(もしや、犯人が現場にいなくて、ピストルが射てるとしたら、どうだろう。それは果して絶対にあり得べからざることだろうか。一平みたいな人物には、一体どれ位までのことなら出来るのだろうか。あいつは、一個のネオン・サインの看板屋なんだが)
屋根裏のピストル。それに気になるのは、あの脅迫状の文句「寒い日にやっつける」ということ。
不図《ふと》気がつくと、階下で男女が声高に争っている様子だ。
「だって、どうしても思い出せないのよオ」そう言って鼻声を出しているのは、先刻のナンバー・ワンのゆかりだった。
「あんたは、冗談を言っているんだ。よオ、あとでウンと奢ってやるから、早くそいつを出しとくれ」そういっているのは、まだ聞いたことのない若い男の声だった。
「冗談いってやしないのよ、本当なの。一平さん、ごめんなさい、ねえ」
おお、相手の若い男というのは、一平なのだ。帆村は階段の中途に突立って思わず声をあげるところだった。
「莫迦《ばか》なやつだなア、貴様は、ううん」一平が苦しそうに呻った。なにか余程重大なものを、ゆかりに預けたのを彼女が無くしたものらしい。
「番頭さんによく訳を言って掛合うといいわ。あたしも、もうせん、あすこの店の質札をなくして困ったけれど、話をしたら、簡単に出してくれたわよ」
どうやらゆかりが無くしたのは、一平の質札らしい。なぜ質札みたいなものを、わざわざゆかりに預けたんだろう。
「貴様にはもう頼まないや」
そういうと、一平は裏口へ出て行った。
戸外へ出ると一平は、あたりを気にしながら、早足にドンドン駈けだした。彼は電車道を越えて、大久保の長屋町の方に走りこんだが、それから露地をくねくね曲った末に、「おうの屋」と白字を染ぬいた一軒の質屋へ飛び込んだ。
「こないだ預けた銘仙の羽織をちょっと出して貰いたいんだが」
「ああ、その羽織なら、今うけだして持ってお帰りになりましたよ」
「しまった。そいつは質札を拾ってきやがったんだ。それに違いない。そいつは、どんな人間だったい、番頭さん」と、一平は真赤になったり蒼白になったりして、地団太《じだんだ》を踏んだのだった。
その時薄暗い土間の隅から思いがけない声がした。
「芝居もどきで気がさしますが、その人間というのは、僕なんです」
「おお、あんたは、誰です」と一平は目を瞠《みは》った。
「羽織をかえして下さい。あれは私のだから」
「羽織は返しますよ、ほら。だが、その襟に縫いこんであった、この契約書は、僕に貸して下さい。僕は素人探偵の帆村荘六というものです」
「ウヌ!」獅子奮迅《ししふんじん》にとびついてくると一平を軽く左に外すと、再び一平が立ち直ってくるその頤のあたりを、ウーンと下から突きあげたアッパー・カット美事にきまって、哀れ一平は帆村の足許に長々と横に伸びた。
* * *
事件のあとで、素人探偵の帆村荘六は、こんなことを発表した。
「犯人一平が考案した現場不在証明のある殺人方法というのは、実はネオン・サインと、当日の異常な気温降下とに関係があったんです。そういうと不思議にお思いでしょうが、屋根裏へ仕掛けて置いたピストルを、電気仕掛で発火させたんです。
そういうと不思議にお思いでしょうが、実は屋根裏に仕掛けてあったピストルの引金を、電気仕掛けで引張るようにしてあったのでした。その電気仕掛けは、ネオン・サインの硝子管と、あれをとりつけてあった壁とに仕掛けてあった銅で出来た二つの接点が普段は離れているために働かないようになっていたのです。一体ネオン・サインは、建物の一番高い壁体にとりつけてありますが、下から見ると、嘸《さぞ》ガッシリとネオンの入った硝子管が止めてあるとお思いでしょうが、本当は、たった一ヶ所だけしっかり留め、一方は、ちょっとした支持物の上に載っているだけなんです。これは、壁体と硝子管との温度に対する伸び縮みが違うところから必要なわけなんで、昼間は硝子管よりも壁体がズッと伸びていますが、夜になると壁体はグッと縮まるのです。高い屋上では、この伸縮がことに著しいのです。犯人一平は、これに目をつけたのでした。二つの銅の接点は屋内に入ってピストルの引金のところと電灯線に繋《つなが》っていました。昼間はこの接点がかなり離れていますが、夜間となり暁となると壁体の方が硝子管よりグンと縮んでくるために接点の距離はずっと近づきます。しかし普通の寒さでこの接点がまだ接触するほどまでになりませんが、あの事件のあった夜のように、猛烈な寒気が襲ってくると、壁体は著しく伸縮し、壁体とネオン・サインの硝子管とにとりつけて置いた二つの銅の接点が遂に火花を出して接触するのです。接触すると、その接点を通じ始めて電灯線からピストルのところへ電流が流れて引金をグッと引張ることになるから、そこでピストルがドカンと発射される順序になるんです。この仕掛けは、あのように箆棒《べらぼう》に寒い暁近くでもなければ、普通の日の昼間はもちろん夜見ても、二つの接点が離れているからそれだけでは鳥渡《ちょっと》なんのことやら、怪しまれずに済む筈なんです。あの犯行のあった日は大変寒い日[#「寒い日」に傍点]で、その夜の明け方ちかく気温が急降することが別ったので[#「別ったので」はママ]、その夜はきっと、兼ねてカフェ・アルゴンの屋根裏から大将虫尾兵作の頭を狙わせてあるピストルがズドンと発射するだろうと見当をつけて、殊更宵のうちから上野くんだりへ出掛け、酒の酔いにかこつけて乱暴狼藉《らんぼうろうぜき》を働いて、故意に留置され、立派な現場不在証明を作ったのです。ピストルが発射されると、その反動で発火装置用の細い電線などは遠方へとんでしまって、たとえ発見されてもなんとも意味がわからないようになっていたのです。
殺人の動機ですか。あれは僕が一平の羽織の中から抜きとった契約書を読むとハッキリします。
[#ここから3字下げ、罫囲み]
殺人契約書
一 拙者は虫尾兵作の殺害を貴殿に依頼せしこと真なり。成功の暁には本書引換に報酬金一萬円相渡すべきものとす。後日のため一札、仍って如件
四月一日 女坂染吉※[#丸付き印、245−下−8]
大久保一平殿
[#ここで字下げ終わり]
要するに一平なる人物は、和製カポネ団の一員だったんです。質札を預けたのは、その夜、警察でしらべられるのがおそろしかったのでした。それから無論、カフェ・オソメの主人女坂染吉も、主犯として即日、捕縛されたことは言うまでもありません。云々」
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「アサヒグラフ」
1931(昭和6)年10月号
※「山下のおでん屋の屋台に噛《かじ》りついて」の「噛」には底本では※[#「口+齒」、第3水準1−15−26]が使われています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング