》しに顔をつきだした其《そ》の男は、なんと丘田医師だったのである。丘田医師には違いないが、日頃の彼の温良なる風貌はなく、髪は逆立ち、顔面は蒼白《そうはく》となり、眼は血走り、ヌッとつき出した細い腕はワナワナと慄《ふる》えていた。
「さあ返せ、返せといったら返さないか」私は腰をあげた。
「畜生、黙っているのは、返さない心算《つもり》だな。よオし、殺しちまうぞ」
 そう呶鳴《どな》ると丘田医師は忽《たちま》ち身を翻《ひるがえ》して、傍《そば》の棕櫚《しゅろ》の鉢植《はちうえ》に手をかけた。彼の細腕は、五十キロもあろうと思われるその重い鉢植を軽々ともちあげて、頭上にふりかぶろうという気勢を示した。
「危い。逃げろッ」
 と帆村が私の腕を引張った。私はパッと身をかわすと、夢中になって駆けだした。なんだか背後《うしろ》で、ガーンという物の壊《こわ》れる物凄い音を聞いたが、多分それは丘田医師の手を放れた鉢植が粉々に砕《くだ》け散《ち》った音だろうと思う。
     *   *   *
 帆村と私とは、やっと流し円タクを拾ってその中に転げこんだ。
「いやどうも駭《おどろ》いた――」私はまだ慄《ふる》えが停らなかった。
「あれでいいんだ」と帆村は呑気《のんき》なことを云った。「あれで筋書どおりに搬《はこ》んだわけだ」
「筋書って、君はあのような場面を予期していたのかネ」と私は呆《あき》れて問いかえした。
「そうなんだが、あんなに巧《うま》くゆくとは思っていなかった。ここで一つ君に頭を下げて置かねばならぬことがあるが……」と彼はちょっと語《ことば》を切って「君がいつか金《きん》青年の殺人犯人のことで、『犯人は気が変だ。それが馬鹿力を出して金を殺し、その直後に正気《しょうき》に立ちかえって逃走した』というような意味のことを云ったが、あれに対して僕は男らしく頭を下げるよ」
「というと……」
「あの丘田医師の大変な力のことを云っているのだ。気が変になったればこそ、あのような力が出る」
「すると金青年に重い砲丸を擲《な》げつけて重傷を負わせたのは、丘田医師だったのかい」
「もうすこしすれば、誰が犯人か、自然に解《わか》る筈《はず》だよ」
 真犯人のことを知ったのは、それから三日のちのことだった。ゴールデン・バットのチェリー――それが真犯人だった。
 これは一部の人に大変|奇異《きい》な思いをいだかせた。何故ならば、どうしてチェリーのように脆弱《かよわ》い女性が、あの重い砲丸を金青年の肩の上に擲《な》げつけることが出来たろうかという疑問が第一。それから彼女に真逆《まさか》金を殺すだけの十分な動機が見つかりそうもないという疑問がその第二だった。
 しかしそれは、彼女達の告白によって、すべてが明《あきら》かになった。私は今、彼女達という複数の言葉を使ったが、あのゴールデン・バットの女たちは、あの晩の騒ぎをキッカケとして、去っていったのだった。彼女たちは、洋酒を盆の上に載せる代りに、みんなが白いベッドの上に載せられていた。それは某内科の病室に収容せられた風景だった。
 チェリーはベッドの上から、切れ切れに一切を予審判事《よしんはんじ》に告白した。
 金が重傷をうけたあの頃は、チェリーが君江よりも一歩進んだ、金の寵愛《ちょうあい》を得ているときだった。金は前にも云ったように、魔薬《まやく》の入った煙草でもって女たちを自由にしていた。その資本は、金が秘蔵していた一袋のヘロインというモルヒネ剤だった。
 ところがこの大切な資本が、或る日金の部屋から見えなくなったのだ。それは大事件だった。命に関する出来ごとだった。彼は気が変になったように部屋の中を探したが、どうしても出て来なかった。そのうちにだんだんと中毒症状が出てきたので彼はかねて懸《かか》りつけの丘田医師をよんで、投薬《とうやく》を頼んだ。それから以来というものは、一日に何回となく丘田医師のもとに哀訴《あいそ》を繰りかえさねばならなかった。ただ然《しか》し中毒者のことであるから、服薬したあとの数時間は、普通と異《ことな》らぬ爽快な気分で暮らすことが出来た。
 しかしここに困ったことが出来た。それは金が予《かね》て魔薬《まやく》入りのゴールデン・バットをバラ撒《ま》いていた女たちに与えるものがなくなったことだった。女たちの中でも、一番|恐《おそ》ろしい苦悩に襲《おそ》われたものは、実にチェリーだった。チェリーはその頃、金の寵愛《ちょうあい》を集めていただけに、服薬量が大変多量にのぼっていた。だからチェリーは金を訪ねて、ヘロインをせびったのだった。
 しかし金にとって、もういくらも貯《たくわ》えのないヘロイン入りのゴールデン・バットだった。ひとに与えれば、忽ち自分が地獄のような苦悶に転げまわらねばならない。だから最愛
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