の情人であるチェリーの切なる乞《こ》いではあったが、バットを与えることを断然《だんぜん》拒《こば》んだわけだった。
チェリーは拒絶《きょぜつ》されると、もう我慢しきれなくなった。どうしてもあの薬を手に入れなければならなかった。暴力に訴えても、たとえ殺人をしても……。彼女は全く気が変になって、あの重い砲丸を頭上に持ち上げた。金はこの思いがけない危険に室内を逃げ廻っているうちに、とうとうチェリーのために鉄の砲丸を擲《な》げつけられてしまった。そしてあのような悲惨な最期《さいご》を遂《と》げたのだった。
さてそれから、チェリーは室内を葡《は》いまわって、魔薬《まやく》の入った煙草を探した。遂《つい》に煙草の隠匿《いんとく》場所がわかって、八本の特製のゴールデン・バットを手に入れた。彼女はそこで貪《むさぼ》るように、あの煙草を喫ったのだった。喫っているうちに、次第に薬の効目《ききめ》はあらわれた、彼女は平衡《へいこう》な心を取りかえしたのだった。彼女がソッと現場《げんじょう》を逃げだしたのは、それからだった。――(海原力三《うなばらりきぞう》が殺人の目的で忍びこんだときは、既に金が重傷を負っていた後《のち》のことだった)
チェリーは外へ逃げだしたが、そこで深夜の街を歩いていた丘田医師に掴《つかま》ったのだった。掴るというよりも、むしろ助けられたといった方が当っていた。丘田はチェリーの唯《ただ》ならぬ様子からそれと察して、幸い独身者の気楽な自分の家へ連れてかえったのだ。その後、二人の仲が如何に発展したか、それは云うまでもないことである。
ところで金のところにあったヘロインの袋は一体誰が盗んだのか。これはいまだに明瞭《めいりょう》ではないのであるが、帆村の説によると、既に金のところへ度々呼ばれて行った丘田医師が、金の隙《すき》をみて秘かに奪いとったものではなかろうかと云っている。あの種の中毒患者にはそんな隙などはザラにあることに違いなかった。
丘田医師は、盗みとった魔薬を悪用し、金と同じ手を用いて、カフェ・ゴールデンバットに君臨《くんりん》したのだった。幸い医者だった彼は、その後の中毒女たちに投薬することに非常に巧《たく》みだった。だから女たちは、中毒者のようには見えなかったのだ。しかし最後に来て、運命の悪戯《いたずら》というか、天罰というか、丘田医師が魔薬を失い、遂に彼自身は金と同じように気が変になり、女たちも薬を断《た》たれて、一勢に中毒者としてその筋に発見されるに至ったのだった。中でもチェリーの中毒症状は殆んど致命的《ちめいてき》だと診断を下《くだ》された。しかし一体誰が、丘田医師のところからヘロインを盗み出したのだ。丘田医師はかねてヘロインを手にしてからというものは、パントポンの代りに、この粗製品を使って世間を胡魔化《ごまか》していたことは、帆村の調査によって証拠だてられたところだ。――実をいうと、帆村はこのことについて何も云わないのであるが、丘田医師のところへ検《しら》べに行った夜、ゴールデン・バットの傍《そば》の橋の上から、なにか白い紙包を川中に投じたが、あれが丘田医師のところにあったヘロインではあるまいかと、私は考えている。あの高い棚の上にあった銀玉《ぎんだま》はきっと真中から二つに割れるボンボン入れのようなものであったろう。
海原力三《うなばらりきぞう》は無罪となり、放免された。
しかし丘田医師は、あの夜から、どこへ逃げたものか、行方不明である。――しかし後日談を云うと、あれから三ヶ月ほどして、帆村は大阪の天王寺《てんのうじ》のガード下に、彼らしい姿を発見したという。しかし顔色はいたく憔悴《しょうすい》し、声をかけても暫《しばら》くは判らなかったという。丘田医師は、今もさる病院の一室で、根気《こんき》のよい治療を続けているという。流石《さすが》は医師である彼のことだと、医局では感心しているそうだ。だが元々医師であって、モルヒネ劇薬の中毒が恐ろしいことはよく判っている筈なのに、どうして彼がモヒ中毒に陥《おちい》ったのか。これはまことに興味ある疑問である。
そのことについては、吾が友人帆村荘六も大いに知りたがっていたところだが、或る時|当《とう》の丘田医師から聞きだしたといって、秘《ひそ》かに話してくれた。嘘《うそ》か真《まこと》かは知らぬけれども、「……丘田氏は、自分でモヒを用いた覚えのないのに、中毒症状を自分の身体の上に発見したそうだ。注射もせず、喫いも呑みもせぬのにどうして中毒が起ったか。その答は、たった一つある。曰《いわ》く、粘膜《ねんまく》という剽軽者《ひょうきんもの》さ」
そういわれた瞬間、私の眼底《がんてい》には、どういうものか、あのムチムチとした蠱惑《こわく》にみちたチェリーの肢体《したい》が
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