ロインみたいな粗悪なやつは私のところでは使っていませんよ」
「ではこの儘《まま》にして置きましょう。もう外に無いでしょうネ」
「ありませんとも」そういった丘田医師の顔は、心持ち蒼《あお》かった。
「では一つ、投薬簿《とうやくぼ》の方を見せて下さいませんか」
「投薬簿ですか。そうです、あれは向うの室にあるから取ってきましょう」
 そういって丘田医師は立った、帆村は私に跟《つ》いてゆくようにと、目で合図をした。
 丘田医師は不機嫌に診察室へ飛びこんだ。そしてチェッと舌打《したうち》をしたが、そのとき後からついていった私が扉《ドア》に当ってガタリと音を立てたものだから、彼は吃驚《びっくり》して私の方を振りかえった。その面は、明かに不安の色が濃く浮んでいた。
 投薬簿は直ぐ見付かった。調薬室へ引返してみると、帆村は前とはすこしも違わぬ位置で、また別の劇薬の目方を測っていた。
「さアこれが投薬簿です。――」
 帆村は帳面をとりあげると、念入りに一|頁《ページ》一頁と見ていった。丘田医師は次第に苛々《いらいら》している様子だった。そのうちに帆村は、投薬簿をパタリと閉じた。
「どうも有難うございました」
「もういいのですか」
「ええ、もう用は済みました。この位で引揚げさしていただきましょう」
 帆村はうしろを向いて、そこにあった大理石の手洗に手を差出して、水道の栓をひねった。冷たそうな水がジャーッと帆村の手に懸った。


     5


 外へ出ると、もう街はとっぷり暮れていた。快《こころよ》い微風が、どこからともなく追駈けてきて、頤《あご》のあたりを擽《くすぐ》るように撫でていった。
 私たちは橋の上に来た。その橋を渡れば、すぐカフェ・ゴールデンバットの入口があった。
 このとき帆村は、ツカツカと橋の欄干《らんかん》の方へ近づいていった。そこで彼はポケットを探っているようであったが、キャラメルの函《はこ》二つ位の大きさの白い紙包みをとり出した。どうするのかと見ていると、呀《あ》ッという間もなく、その紙包みは帆村の手を離れて、川の水面に落ちていった。帆村はパタパタと両方の掌《てのひら》を打ち合わせて、なにかをしきりに払っていた。
 その夜のカフェ・ゴールデン・バットは宵《よい》の口だというのに、もう大入満員だった。私達はやっと片隅に小さい卓子《テーブル》を見付けることが出来た。
「ああら、いらっしゃい」
 そういって通りすぎたのは、チェリーだった。カクテルの盃を高くささげて、急ぎ足に通りすぎた。背後《うしろ》から眺めるとワン・ピースが、はちきれそうにひきしまって、彼女の肉体があらわに透《す》いて見えそうだった。
「ありゃチェリーさんだネ」
「うん」
「暫く見ない間に、大変肉づきが発達したじゃないか。まるで別人のようだ」
「そうだネ」私は或ることを思い浮かべて、胸の締めつけられるのを覚えた。
「まあ、いらっしゃいませ」そこへ君江がやって来た。「先刻《さっき》はどうも……」
 君江が帆村にそういって挨拶をした。オヤオヤと思って私は帆村の顔を見た。
「む――」帆村は白っぱくれて、ホープの煙幕《えんまく》の蔭に隠れていた。
 注文をきいて、君江が向うへゆくのを待ちかねて私は口を切った。
「今のはどういう訳なんだ、『先刻はどうも』というのは」
 帆村はニヤリと笑って、灰皿に短くなったホープを突きこんだ。
「君は覚えているだろう」と彼は声を墜《お》として云った。「あの金《きん》という惨死《ざんし》青年が或る中毒に罹《かか》っていたことを」
「ひどいモルヒネ中毒だというんだろう」
「そうだ。屍体解剖の結果、それは十分に証明されたが、しかしあのモルヒネ中毒は彼の直接死因でないことが証明された」
 帆村は、そこで又一本のホープを摘《つま》みあげた。
「ところが、あの金が如何なる手段でモヒを用いていたか、それについては一向解らなかったのだ。僕はそれを解くのに大分苦心をして、とうとう神戸へ出掛けるようなことになったのだ。しかし僕は遂《つい》にその手段を見つけることが出来た。発見のヒントは、金の部屋を探したときに掴《つか》んだものだった。それは灰皿の内容物からだった」
「うむ」
「あのとき、君も知っているだろうが、灰皿の中には、燐寸《マッチ》の燃え屑と、煙草の灰ばかりがあって、煙草の吸殻が一つも見当らなかったことを。あれが最初のヒントなのだ。およそ吸殻《すいがら》のない吸い方をするということは、普通の吸い方ではない。それは愛煙家のうちでも、最も特異な吸い方なのだ。火のついた巻煙草がだんだんと短くなってお仕舞いになると脂《やに》くさくなる。これは決して美味《おいし》いところではない。それを大事に最後まで吸いつくすところに、僕は疑問を挟《はさ》んだのだ。――そこで僕
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