イヤ、僕ですよ」
「あ、そうですか、実は……」
と私は急病人の話をして、ひどい外傷《がいしょう》だから直ぐに来て呉れるように頼んだ。
「伺《うかが》いましょう。直ぐお伴しますから、ちょっと待っていて下さい」
丘田医師は顔を緊張させたようだったが、奥へ入った。
奥へ入って仕度《したく》をしているのであろうが、直ぐという言葉とは違って、なかなか出て来なかった。私はすこし癪《しゃく》にさわりながら、この医師の生活ぶりを見てやるために、玄関の隅々を睨《にら》めまわした。
そのときに、私の注意を惹《ひ》いたものがあった。私も帆村張りに、これでも観察は相当鋭いつもりだ。とにかく第一に私は、そこに脱ぎすてられてあった真新しい男履きの下駄の歯に眼を止めた。桐の厚い真白の歯が、殆んど三分の二以下というものは、生々《なまなま》しい泥で黒々と染まっていた。
それからもう一つ、洋杖《ステッキ》が立てかけてあったが、近くに眼をよせて仔細に観察してみると、象牙《ぞうげ》でできているその石突《いしづ》きのところが同じような生々しい泥で汚れていた。
この夜更《よふ》け、丘田医師が直ぐ玄関へ飛び出して来たところといい、寝ぼけ眼をこすっていたわけでもなく冴《さ》えきった眼をしていたことといい、この下駄の泥、洋杖《ステッキ》の泥は、丘田医師がどんなことをしていたかすこし見当がつくように思った。私は犬のように鼻をクンクン動かして、更に周囲に注意を払った。丘田医師のらしい男履きの下駄が並んでいるところは、セメントで固めた三和土《たたき》だった。それは白い色が浮き上るほど、よく乾燥していた。しかし私は、その男下駄の側方《そくほう》に、ほんの僅かではあるが、少し湿っぽい部分のあるのを発見した。私は前跼《まえかが》みになると、手の甲《こう》をかえして拳《こぶし》の先で三和土の上をあちこち触れてみた。手の甲というものは、冷熱の感覚がたいへん鋭敏である。医師が打診をするときの調子で、そこらあたりを圧《おさ》えてまわった揚句《あげく》、とうとう私は或る物の形を探しあてた。それはなんと、一対の踵《かかと》の高い婦人靴の形だった。靴から押して、足の寸法は二十二センチ位と思われた。
婦人靴の恰好に、三和土の上が湿りを帯びていながら、そこに婦人靴が見当らないということはどういうことを意味するのだろう。と考えたとき、奥の間で何だか女の啜《すす》り泣くような声が一《ひ》と声|二《ふ》た声したような気がした。ハッとして思わず前身を曲げて聞き耳を立てたところへ、手間どった丘田医師が洋服に着換えてヌッと出てきたので、これには私も周章《あわ》てた。
「どうかしましたか」と丘田医師は不機嫌に云った。
「イヤ、誰方《どなた》か患者さんがおありじゃないですか」
「有りませんよ。お手伝いが歯を痛がっているのです」
そういう声は変に硬《こわ》ばっていて、嘘を云っているのだということを証明しているものだった。
私達は外へ出たが、そのときは話題が、例の重傷を負うた金青年の上に移っていた。丘田医師の話では、金青年を知ってもいるし、診察もしたことがあると云っていたが、何病《なにびょう》であるか、それは云わなかった。そして、私の熱心な問いに、時々トンチンカンな返事をしながら、しきりに足を早めるのだった。
3
折角《せっかく》駆けつけて呉れた丘田医師だったけれど、重傷の金《きん》青年は、私が出掛けると間もなく事切れたそうであった。
帆村の案内で、金の屍体のところまで行った医師は、叮嚀《ていねい》に死者へ敬礼をすると、懐中電灯を出して、傷の部分を診察した。
「これは何か鈍器《どんき》でやられたもののようですネ。余程重い鈍器ですナ、頭の方よりも、左肩が随分ひどくやられていますよ。骨がボロボロに砕けています」
「そうでしょう」と帆村は応《こた》えてから、指を側へ向けた。「そこに凶器がありますよ」
「どれです」医師は目をあげた。
「ほら、これですよ」と帆村は二三歩あるいて、床の上に転《ころが》っている一つの大きい毯《まり》のようなものを指した。「外側は御覧のとおり毛糸で編んであります。しかしこれは単なる袋ですよ。中身は鉄の砲丸です、あの競技に使うのと同じですが、非常に重いです。こっちから御覧になると、血の附いているのが見えますよ」
帆村は横の方から凶器の一部を指し示した。
「これは頭部からの出血が染ったのですナ」と医師は云った。
「そうらしいですネ。ときに丘田さん。この死者の致命傷は、やはりこの外傷によるものでしょうか」
「無論それに違いがありませんが、何か御意見でも……」
「意見というほどのものではありませんが、この死者の身体を見ますと、普通の人には見られない特異性があるように思うんで
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