ルの缶詰とがあらわれた。白い手は幕の中に引っこんだ。
 すると横手の戸があいて、ウェイトレスがでてきた。見るとそれはヒトミによく似ていた。しかしずっと年は上で、大人に近かった。
 ヒトミにちがいないのだが。……
「お待ちどうさま、三等機関士さん。どっちも上等の品ですよ。ほっぺたが落ちないように。……ほほほほ」
 そういいながら、ココアとパイナップルの缶詰を、東助の前においた。
(えへへ、おれのことを三等機関士なんていったぞ)
「今日は、食堂はひまなんだね」
 東助は、すらすらと、そういった。口がひとりで、ぺらぺらと動きだしたのである。ふしぎなこともあればあるものだ。
「もう五分もすれば交替時間ですから、みなさんいらっしゃると思うわ」
「ああ、そうか。僕は修理で時間外に働いたから早く終《しま》ってでてきたんだ」
「どこを直していらっしたの」
「超音波の発生機だ。困ったよ。こんど故障を起すと、人工重力装置がきかなくなると思うね。そうしたら一大事だよ」
「そうすると、どうなりますの」
「そうするとね、今ちょうど地球の引力と月の引力が釣合っている重力|平衡圏《へいこうけん》をわがギンガ号は飛んでいるんだが、もし人工装置がきかなくなると、艇内に重力というものがなくなって、皿がとんだり、天井に足がついたり、たいへんなことになるよ」
「まあ、たいへんね。そんなことになっては困りますわ。なぜもっと安全なように艇をこしらえておかなかったんでしょう」
「人工重力装置はぜったいに故障を起さないものとしてあったんだが、昨日大きな隕石《いんせき》が艇の機関室の外側へぶつかったことを知っているね。あれ以来、どうも調子がよくないんだよ」
「困ったわねえ。重力は停電のように、ぴしゃりと消えちまうものなの」
「いや、じわじわと重力がへってくるだろう。しかし七八分たてば重力は完全に消えるだろうね」
 東助は、とくいになって話しながら、パイナップルの缶詰を、缶切《かんきり》でひらいた。
「ああ、いい匂いだ。うまいぞ、このパイ缶は。……おや」
 東助が、さっと顔色をかえた。
「どうなすったの、三等機関士さん」
「からだが急にふわっと軽くなった。あんたはどう。そう感じない」
「あらッ、へんよ。あたしも、からだがふわっと軽くなりました。どうしたんでしょうか」
「いよいよ、おいでなすったんだ」
「えっ、何がおいでなすったのですの」
「人工重力装置が故障になったにちがいない、重力がだんだん消えていく。あッからだが浮きあがってくる」
「あら、まあ。どうしましょう」
「なあに心配することはない。大丈夫。ただ、いろんなものが動きだすからね。……あッ、ほら、缶詰の中からパイナップルの輪切《わぎり》になったのが、ぞろぞろと外へせりだしてきた」
 そのとおりだ。缶詰の外へ、黄色いパイナップルの輪切になったのが、まるで生き物のように、ぞろぞろとはいだしてきたのである。
「あれッ。パイナップルのお化《ば》け!」
 と、ウェイトレスがびっくりして、とびあがった。すると彼女のからだは、すうっと天井の方へのぼっていった。足で床をけったので、重力がきいていないから、かるがるとからだが浮きあがったのである。
「あーれエ。君、どこへいく?」
 東助はウェイトレスをつかまえようと思って立上ったが、そのときやはり床をけったので、彼のからだも、ふわーり。
「おや、おや」
「あいたッ」
 ヒトミによく似たウェイトレスは天井に頭をぶっつけた。そしてその反動で、こんどはからだがすーうと下り始めた。上る東助と、下りるウェイトレスとが、途中でいきあって、両方から手をだしてつかまりあったものだから、こんどは二人のからだがからみついて、空中をふーわ、ふーわ。
 そのとき、紺色《こんいろ》の幕の奥で、
「うわッ、助けてくれ」
 といった者がある。つづいてがたんがたんと、机や腰掛のぶつかる音。
 と、戸があいて、そこからふわーッとでてきたのは、顔中|髭《ひげ》だらけのコック長であった。
「た、助けてくれ。コーヒーが、わしをおっかけてくる。あッ、あちちち。これはたまらん。助けてくれイ」
 コック長は、一生けんめいに逃げる。彼のからだが、池の中へとびこむ蛙《かえる》のように長くのび、空間をすうーッとななめにとぶ。するとそのあとから、長い、にょろにょろした茶褐色《ちゃかっしょく》の棒が、ぽっぽと湯気をたてながら、コック長をおっかけて、彼のくびすじのところへつきあたる。
「あッ、あちちち。助けてくれ。コーヒーをとりおさえてくれ。やけど攻《せ》めだ。わしは死んじまう」
 その茶褐色の棒は熱いコーヒーだった。料理場の火の上にかかっていたコーヒー沸《わか》しの口から、にょろにょろと外へでてきた熱い熱いコーヒーだった。重力がなくなったので、コーヒーはコーヒー沸しの底にじっとしてなくなったのだ。そこへちょっとした力が働いて、液状《えきじょう》のコーヒーは、コーヒー沸しの口から、にょろにょろと外へはいだしたのだ。
 そのとき、天井の隅《すみ》にとりつけてある高声器が、交替時間になったことを告げた。
 すると、反対の入口の扉があいた。そこから大ぜいの人が、この食堂へはいってきた。誰も彼もみんなからだを横にして部屋の中へはいってくる。まるで海でおよいでいるような恰好《かっこう》だった。ちょっとした力を加えると、からだが前に走りすぎて、もう停まらなかった。だから、そういう連中は、そこらにある柱や壁や、電灯の笠や机や腰掛にかじりついて、やっと自分のからだを停めるのだった。
 もちろん腰掛も机も、こんなときの用心に、しっかりと床に、ボールトとナットでしめつけてあった。
「おい。おいしいものを早くだしてくれたまえ」
「おや、ウェイトレスのヒトミさんやコック長がこんなところで、まごまごしているよ。パイ缶を一つとミルクセーキ一ぱい、早いところ頼むぜ」
 と、食堂の空中を泳ぎながら、みんな註文をだす。
「はいはい。只今。しかし熱い料理や飲料は今、できませんよ。わしもみなさんも大火傷《おおやけど》しますからね。とにかく困ったものだ。早く人工重力装置の故障が直ってくれないことには、仕事がさっぱりできません。はい只今」
 そういいながら、髭のコック長は、蛙のような恰好で料理場へとびこんでいった。
 とたんに、停電のように急にあたりが暗くなった。


   人間はおき去《ざ》り


「どうです。重力のない世界はおもしろかったですか」
 いつの間にかポーデル博士が、操縦席からうしろをふりかえって、東助とヒトミに呼びかけた。
「ああ、コック長だ。博士はコック長に変装していたんですね」
「ははは。見つけられましたね」
「髭《ひげ》だらけのコック長なんて、見たことがありませんわ」
「ははは、髭はとった方がよかったですね。さて君たちにたずねます。今訪問した世界は、宇宙艇の中の出来事でありました。ところが、もし、ああいうことが、地球の上で起ったとしたら、どんな現象が起るでしょうか」
「地球の上で生活しているとき、急に重力がなくなったら、どうなるかというんですか」
「そうです。どんなことが起りますか」
「分りました。私たちは鳥のように高い空をとぶこともできるし、ハンモックもないのに空中で昼寝をすることができますわ。たのしいですこと」
「海の水が陸へあがってくると思う。その海の水が雲のようになって空を飛ぶんだ。すごいなあ。アフリカのライオンが、いつの間にか空を流れて日本へやってくるようになる。そうですね、ポーデル先生」
「いや、もっとすごいことになります。あれをごらんなさい。地球に重力がなくなったときの光景が、航時機《こうじき》の映写幕の上にうつしだされています。ほら、丸い地球の表面に、たいへんなことが起りはじめましたよ」
 博士が指した壁のうえの映写幕に、地球の北半球の一部がうつっていた。地平線は丸く曲《まが》っていた。地表から何物かが、ふわふわまいあがっている。よくみると、それは家屋《かおく》だった。橋だった。それから小さいものは自動車だった。みみずみたいに長いものは列車だった。きらきらと、塵《ごみ》のようなものが浮かんで地表を離れていくのが見えたが、それはおびただしい人間の群だった。
「見えましょう。大都会が、今こわれていくところです。市民たちは、ずんずん地面から離れていくでしょう」
「なぜ人間や建物なんかが、あのように、どんどんとんでいくのですか。はげしすぎるではありませんか」
「はげしすぎることはありません。そのわけはこうです。地球は一秒間に三十キロメートルの速さで、空間を走っているのです。重力があれば、建物も人間も、地球の表面にすいつけたまま、このすごい速さで公転していくのですが、重力がなくなると、あのとおり、建物も人間も、あとへ取残されてしまいます。そして人間もけだものも植物も、みんな死んだり枯《か》れたりしてしまいます」
「それはたいへんですね。重力がなくなることを願ってはいけませんね」
「ははは。ほんとうは重力はなくなる心配はありません。しかしやがて、人間が発明するであろうところの重力を減らす装置を、うんと使いすぎると、あのような大椿事《だいちんじ》がもちあがるでしょう。そのことはあらかじめ、十分注意しておかねばなりません」
 博士は、しんみりと警告をあたえた。


   ポーデル博士の松永《まつなが》さん


 その日、東助とヒトミが、ポーデル博士の飛ぶ樽《たる》の中へはいってみると、博士は、はだかになって着がえの最中だった。ふしぎなことに、前には羽織《はおり》や袴《はかま》がでている。
「先生こんにちは。この羽織や袴をどうなさるのですか」
「やあ、君たち、きましたね。この着物を、わたし、着ます。そして日本人に化《ば》けるのです。見ていて下さい」
「日本人に化けてどうするのですか」
「あなたがたを、ふしぎな国へ案内するためです。今日は心霊実験会《しんれいじっけんかい》へつれていきます」
「心霊実験会とは、どんなことをするのですか」
「待って下さい。先に変装をすませますから」
 ポーデル博士は、鏡の前へいって、眉《まゆ》を黒く染めたり、高い鼻をおしつけて低くしたり、ひっこんだ目を少し前にだしたり、顔に黄色い顔料《がんりょう》をぬったりした。それから袴《はかま》をつけ、羽織《はおり》を着た。するとそこにはいつもの博士の姿は消えて、人のいい老日本人がにこにこ笑っているのだった。
「さあ、これでいい。日本人と見えましょう。わたくしは今日は、松永さんという老人に化けました。松永さんは、心霊実験会の会員として知られています。松永老人がいくと、その心霊実験会の方では安心して会場へ入れてくれます。会員でない人がいくと、なかなか入れてくれません。それでわたくし、松永老人に化けました」
「ああ、なるほど」
「私たち子供はいいんですかしら」
「あなたがた二人は、松永老人の孫あります。それなら大丈夫、入場許されます」
「なかなかやかましい会なんですね」
「そうです。心霊が霊媒《れいばい》の身体にのりうつって、ふしぎなことをいたします」
「心霊とは何ですか。霊媒とは何でしょうか」
「心霊とは人間の霊魂《れいこん》のことです。たましい、ともいいます」
「ああ、たましいのことですか。先生、人間が死んでも、たましいは残るのでしょうか」
「さあ、それが問題です。今夜の実験をごらんになれば、それについて一つの答を知ることができましょう」
「たましいなんて、人間が死ねば、一しょになくなってしまうもんだ。たましいがあるなんて、うそだと思うよ」
 東助は、心霊の存在をうち消した。
「でも、あたし本当に、人魂《ひとだま》がとぶところを見たことがあってよ。あれは四年前の夏だったかしら」
「あれは火の玉で、人間のたましいじゃないよ。ねえ、先生」
「さあ、どうでしょうか」
 いつになくポーデル博士は、今日ははっきり答えない。
「先生。霊媒というのは、どんなものですの」
「おお、その霊媒です。霊媒は
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