は、その台の前にあった。
東助も、ヒトミも、目を丸くしてこの実験台の異風景に見とれていたが、とつぜん、一箇の架台《かだい》がレトルトをのせたまま宙に浮いた。
「あッ」
その架台は横の方へいって再び台の上へ足をおろした。次はビーカーがいくつも、ひとりでに台の上からまいあがって、台の隅《すみ》っこへもぐりこんだ。試験管が、ことんことんと音をたてながら台ごと横へすべっていった。
と、とつぜんじゃーッと音がして、栓から水がいきおいよく流れだした。すると大きなビーカーが動きだして、水を受けた。
水はビーカーの中に八分目ぐらい入った。水道の栓がひとりでに動いて、水がとまる。こんどはビーカーが実験台の上へもどってきた。と、アルコール・ランプの帽子がとび上って、台の上へ下りた。と、引だしからマッチがとびだしてきて、一本の軸木がマッチ箱の腹をこすった。軸木に火がついた。その火はアルコール・ランプの芯《しん》に近づいた。ぽっと音がして青白い焔《ほのお》が高くあがった。するとこんどは架台《かだい》と金網《かなあみ》とが一しょにとんでいって、アルコール・ランプにかぶさった。水の入ったビーカーがとんでいって架台の上の金網の上に乗った。焔は金網を通じて、ビーカーの水をあたため始めた。
あまりの奇怪なる器具の乱舞《らんぶ》に、東助もヒトミも息をのんで、身動きもしなかった。そのときアルコール・ランプの燃える台の向こうから、例の特長のある咳ばらいが聞えた。ドクター・ケンプが、台の向こうに腰を下ろしたらしい。腰掛ががたりと床の上に鳴った。
「ケンプ君。どうして君は、君のからだを透明にすることができたのかね」
ポーデル博士が、台の向こうへ声をかけた。
姿のないドクターは、立てつづけに咳ばらいをした。
「透明というんではない。ほんとうは見えない人だ」ドクターは、怒ったような声で、ぽつんぽつんと喋《しゃべ》った。
「その研究には、永い年月をかけた。莫大な金を使った。ぼくは親爺《おやじ》の金まで持ちだした。……三年かかれば研究はできあがると思ったが、だめだった。それから屋敷を売って次の五年間の研究費を作った。……五年目の終りになって、こんどこそうまくいくと思ったのが間違いで、致命的な問題に突当り、今までの研究は全部だめだと分った。がっかりして、ぼくは一週間死んだようになって寝ていた……やり直しだ。振《ふり》だしへもどって、はじめからやり直さねばならない。研究の費用はどうするんだ。何を喰って研究をつづけるのだ。
ぼくは、のこり少い持物をほとんど全部|叩《たた》き売った。ああ、やさしかった母親の残してくれたかたみの指環も売った。寒い冬を凌《しの》ぐためにはぜひとも必要なオーバーさえ人の手に渡した。学者として生命にもかえがたい秘蔵の書籍三千冊も売り払った。ベッドさえ手放した。そしてこのあばら家へ転がりこんだ。……あとに残ったのは、今この部屋に転がっているものだけだ。実験の器具、ぜひ必要な本と研究録、わずかの生活道具だけになってしまった。
ぼくは元気をだして最後の研究にとりかかった。そのときぼくは、自分の健康がもうとりかえしのつかない程そこなわれているのに気がついた。それからのくる日くる日を悪寒《おかん》と高熱になやみながら、ぼくは新しい道から研究を進めていった。……十月十一日! 忘れもしない、十月十一日だ。暁の光が窓からさしこんできたとき、三日間徹夜でつづけた研究が、遂に実を結んだ。見よ、ぼくの掌《てのひら》の上にのっている一本の紐《ひも》は、手ざわりだけがあって形はなかった。ダイナモの力を借りて、ぼくはその紐を全然見えないものにしてしまったのだ」
猫の実験
見えない人ドクター・ケンプは、一息ついた後で、ふしぎな物語をつづける。
「ものに光があたったとき、その形が見えるのはなぜか。それは光がその物体にあたって反射するからだ。あるいは光が中へはいって屈折するからだ。もし光があたっても、光が反射もしなければ屈折もしなければ、ものガラスの形は全然見えなくなるのだ。……硝子《ガラス》板は透明だが、ちゃんと形が見える。これは反射のない場合でも、光は空気の中よりも硝子の中でひどく屈折するからだ。
その硝子板を水の中につけてみる。と、こんどは前の場合よりずっと見えにくくなる。これは水の屈折率が硝子の屈折率とほとんど同じだから、光は硝子板をまっすぐに通りすぎる。そこで硝子板の形が見えにくくなるのだ。……もし硝子板をこなごなにこわした上で、水の中に入れてみる。するとその硝子の粉は、ほとんど完全に見えなくなる。これが偉大なるヒントだ。だからもし人間のからだの屈折率を、空気と同じにすることができればいいんだ。そして同時に、光を反射もしないし吸収もしないようにする
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