不可解な情景に立ち竦《すく》んだまま。
「大願成就だ。――ここらで引揚げよう」
 と云った半之丞が、何気なく背後をふりかえって、そこで虎松とバッタリ顔を合わせて、ギョッとした。
「おお、虎松。――お前に教えとくが、この後こんな場に必ず出てはならぬぞ。忘れるなッ」
 そういい置くと、半之丞は軒端を出てバラバラと走りだした。すると街上の殺人鬼も何に脅《おび》えたか、同じくバラバラと駆けだした。
「ま、待てッ!」
 と虎松が喚《わめ》きながら、追いかけるのを、
「莫迦《ばか》め! 来るなと申すに。教えたことをすぐ忘れる愚か者めが」
 そういい残して半之丞はドンドン駆け出していった。そのうちに二つの黒影がもつれ合って一つになると見えたが、そのまま次第に夜の闇の中に消えて見えずなった。
 虎松は、それでも後を追い駆けたが、それが無駄であることに気がつくには、余り多くの時間を要しなかった。
「――解せぬ。……」
 と首をふりながら、元の大通りへ帰ってくると、そこには何時押しよせたか、十人あまりの人だかり……。
「あまりにも美事な太刀傷じゃ。人間業ではないのう」
「やはり天狗の仕業じゃ。それに刃向ったは権四郎の不運!」
「そうじゃ、権四郎の不運じゃ。吾々の知ったことではないわ」
 ことの済んだ後で、云い訳をしているのは、酔も何も醒めはてた権四郎の同輩たちだった。前額から切りつけられて、後頭部まで真直な太刀痕が通っているという物凄い切られ様をした権四郎の死骸の上に、同輩の一人がソッと羽織を被せてやった。


   くろがね天狗


 くろがね天狗!
 そう呼ばれるようになった稀代の殺人鬼は、その後も臆面もなく、毎夜のように江戸のあちらこちらに出没した。
 切りかけて、いまだ太刀を引いて逃げおおせた者がなかった。というのは、切りかけたが最後、印判《はん》で捺したように天狗のために切り捨てられるのであった。
「手前手練の早業にてサッと切り込んだので厶《ござ》るが……」と運よく腕一本を失って助かった被害者が病床で述懐した。
「確かに手応えはあったが、ガーンという音と共に、太刀持つ拙者の手がピーンと痺《しび》れて厶る。黒装束の下に、南蛮鉄の一枚|肋《あばら》の鎧《よろい》を着込んでいたようで厶る。御師範といえども、所詮あれでは切れませぬ」
 いよいよ本物のくろがね天狗だとの評判が高くなった
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