『地球盗難』の作者の言葉
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)僕の本当に企図《きと》しているところの科学小説
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)野村|胡堂《こどう》氏
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本書は、僕がこれまでに作った科学小説らしいものを殆んど全部集めたものだ。科学小説らしい――といって、これを科学小説と云い切らぬわけは二つある。一つは僕が探偵小説として発表したものが一二混っていること、もう一つは僕の本当に企図《きと》しているところの科学小説としては、まだまだ物足らぬ感がするから、本当の科学小説はいよいよ今後に書くぞという作者の意気ごみを示したいことと、この二つの事由《じゆう》によっている。
元来わが国には、科学小説時代というものがまだやって来ていない。しかし強《し》いて過去にこれを求めるなれば、押川春浪《おしかわしゅんろう》氏の『海底軍艦』などが若き読者の血を湧《わか》した時代、つまり明治四十年前後がそうであったようにも思われる。春浪氏の著作中には、早くも今日の潜水艦や軍用飛行機などを着想し、これを小説のなかに思う存分使用したのであった。しかし春浪氏の外には、これに匹敵《ひってき》するほどの科学小説家なく、また春浪氏の作品は、冒険小説なる名称をもって呼びならわされたのであって、その頃を科学小説時代と云うにはすこし適当ではないように思う。さりながら、その出所《しゅっしょ》のいずくなるを暫《しばら》く措《お》くとするも、とにかく『海底軍艦』などの科学小説がその頃現れ、読者の血を湧したことは厳然《げんぜん》たる事実であって、押川春浪氏の名をわが科学小説史の上に落とすことは出来ない。
それからこの方、誰が科学小説を書いたであろうか。僕の識《し》る範囲では、野村|胡堂《こどう》氏、三津木春影《みつぎしゅんえい》氏、松山|思水《しすい》氏などが、少数の科学小説またはそれらしいものを書いた。しかしそれ等《ら》は、不幸にして読書界に多くの反響を呼びおこさなかったようである。一方ウェルズやベルヌの翻訳ものが出て、いささか淡《あわ》い色をつけてくれたに過ぎない。
その奮《ふる》わぬ科学小説時代は、遂《つい》に今日にまで及んでいるといって差支《さしつか》えない。過去に於て、科学小説の奮わなかったことは、肯《うなず》けないことではない。一般読者階級には、科学小説に興味をもつ者も少く、科学を理解する者の頭から純然とひねりだされた科学小説もなく、そしてまた科学者たちは本来の科学研究を行うのに寧日《ねいじつ》なく、自己の科学趣味や科学報恩の意志を延長して科学小説にまで手を伸ばそうという人は皆無だった。
ところが今や世はあげて、科学|隆興《りゅうこう》時代となり、生活は科学の恩恵《おんけい》によって目まぐるしいまでに便利なものとなり、科学によって生活程度は急激なる進歩をもたらし、科学に従事し、科学に趣味をもつ者はまた非常に多くなってきた。しかも国際関係はいよいよ尖鋭化《せんえいか》し、その国の科学発達の程度如何によってその国の安全如何が直接|露骨《ろこつ》に判断されるという驚くべくまた恐るべき科学力時代を迎えるに至った。科学に縋《すが》らなければ、人類は一日たりとも安全を保証し得ない時代となった。従前《じゅうぜん》の世界では、金力《きんりょく》が物を云った。今日は、金力よりも科学力である。いくら金があったとしても、科学力に於て優越していないときは勝者たることは難《かた》い。世界列国はいまや国防科学の競争に必死であり、しかもその内容は絶対秘密に保たれてある。いよいよ戦争の蓋《ふた》をあけてみると、いかに意外な新科学兵器が飛び出してくるか、実に恐ろしいことである。開戦と同時に、戦争当時国は手の裡《うち》にある新兵器をチラリと見せ合っただけで、瞬時に勝負の帰趨《きすう》が明《あきら》かとなり即時休戦状態となるのかもしれない。勝つのは誰しも愉快である。しかし若《も》し負けだったら、そのときはどうなる。世界列国、いや全人類は目下科学の恩恵に浴《よく》しつつも同時にまた科学恐怖の夢に脅《おびや》かされているのだ。
このように、恩恵と迫害との二つの面を持つのが当今の科学だ。神と悪魔との反対面を兼《か》ね備《そな》えて持つ科学に、われ等は取《と》り憑《つ》かれているのだ。斯《か》くのごとき科学力時代に、科学小説がなくていいであろうか。否《いな》! 科学小説は今日の時代に必然的に存在の理由を持っている。それにも拘《かかわ》らず科学小説時代が来ないのはどうしたわけであろうか。その答は極《きわ》めて月並《つきなみ》である。すなわち今日の小説家に科学を取扱う力がないからである。
或る小説家や批評家は、科学小説を小説的価値のないものとして排撃《はいげき》している。しかし僕に云わせれば、彼等は識らざるが故《ゆえ》に排撃しているのである。彼等には取扱い得ないが故に敬遠しているのである。それは排撃の理由にならぬ。如何に排撃しようと、科学小説時代の温床《おんしょう》は十分に用意されているのだ。彼等はいまに、自分が時代に遅れたる作家であったことを悟るであろう。時代を認識できない者や不勉強な者は、ドンドン取り残されてゆく。
科学小説時代は、今や温床の上に発芽しようとしている。僕は最近某誌の懸賞に応募した科学小説の選をした。今度が第三回目であって、その前に二回応募があったので、いずれも僕が選をした。今度の選に於て、僕の非常に愕《おどろ》いたことは、その応募作品の質が前二回に比して躍進的向上を示したことである。僕は思わず独言《ひとりごと》をいったくらいだ。――やあ、いよいよ御到着が近づきましたネ、科学小説時代! ――と。僕はそのとき、たしかに科学小説時代の胎動《たいどう》を耳に捕えたのであった。
科学小説時代はいよいよ本舞台に入ろうとしている。それはどんな色の花を咲かせることになるのか、まだ分っていない。どんなものになるのかしらないが、とにかく科学小説時代が開ける。われ等の生活上の科学を、次の世界を夢想《むそう》する科学を、われ等の生命を脅かす科学を、その他いろいろな科学を土台として、科学小説はいまや呱々《ここ》の声をあげようとしている。どんないい子だか、鬼っ子だか、誰も知らないが……。
そういう時節《じせつ》に、僕がこの本を上梓《じょうし》することが出来たのは、たいへん意義のあることだと思う。この本は、良きにも悪しきにも、科学小説時代を迎えるまでの捨て石の一つになるであろう。ぜひそうなることを僕は心から祈る者である。僕は、近き将来に於て、卓越《たくえつ》した科学小説家の著《あらわ》すところの数多くの勝れた科学小説を楽しく炉辺《ろへん》に読み耽《ふけ》る日の来ることを信じて疑わない。
次に、この本に収めた各篇について、簡単な解説を試み、一つは作者自身の楽しき追憶《ついおく》のよすがにし、また一つは大方の御参考にしたいと思う。
巻頭に置いた『崩《くず》れる鬼影《おにかげ》』は昭和八年、博文館から創刊された少年科学雑誌「科学の日本」に書き下ろしたものである。極く単純な宇宙の神秘を小説にしたもので、他愛がないという外ない。
『盗まれた脳髄』は「雄弁《ゆうべん》」に載《の》ったもの。このテーマはずいぶん古くから持っていたものであるが、それを小説にしようと、あまり永い間あれやこれやと筋をひねったものであるから、書くときになって、もっといい扱い方があると思いながらも遂に一歩も新しい扱い方ができなかった作品である。僕は今にこの小説のようなことが確かに出来るだろうと思っている。
『或る宇宙塵の秘密』は「ラヂオの日本」に書いた短いもの。将来の科学小説として、この種のものがまず読書界に打って出るのではあるまいかと思う。この辺のものであれば、小説作法を知らない科学者にも、そう苦しまないで書けることと思う。
『キド効果』は「新青年」に書いた。これは作者として相当自信を持って書いたものである。それも将来の科学小説の一つの型になるものだと思っている。これが載ったのは或る年の新年号だった。そのとき紙上に八篇ほどの小説が載り、そしてどの作品が一番よかったかというので、読者採点を募集した。その結果、この『キド効果』は断然一等になるかと思いの外、断然ビリに落ちた。これには尠《すくな》からず悲観したが、僕は今も尚《なお》この作について自信を持っている。
『らんぷや御難《ごなん》』は「拓《ひら》けゆく電気」に書いたもの。これは卑近《ひきん》な生活の中に、科学を織りこんだもので、これまた一つの型だと思っている。
『百年後の世界』はAKから「子供の時間」に全国中継で放送したものの原稿である。空想に終始したものであって、荒唐無稽《こうとうむけい》であることはいうまでもないが、科学に趣味を持つ者にとって、このような表題について想を練《ね》ることは殊《こと》の外《ほか》愉快なものである。これは「子供の時間」である。が早く「演芸放送」の時間に堂々と科学小説が打って出る日が来てもいいと思う。このときに、音響効果を適当にやれば、普通のドラマでは到底《とうてい》出せないような新しい感覚的な娯楽放送を聴取者のラウドスピーカーに送ることが出来ように思っている。
『流線|間諜《スパイ》』は「つはもの」に連載されたスパイ小説である。この小説のテーマは、結局科学小説なのであるが、それをたいへん自慢にしていたところ、後から人の話では、これと同じことを実際ソ連の或る学者が計画しているというニュースが出ていたという話であって、僕は愕き且《か》つ感心したことであった。
『放送された遺言《ゆいごん》』は、僕の書いた科学小説の第二作であって、昭和二年「無線電話」という雑誌に自ら主唱《しゅしょう》し、友人|槙尾赤霧《まきおせきむ》と早苗千秋《さなえちあき》とに協力を求めて、三人して「科学大衆文芸」というものを興《おこ》したが、そのときに書いたものである。そのときは『遺言状放送』という題名であった。僕は翌昭和三年に、処女作の探偵小説『電気風呂の怪死事件』を書いたが、その作以前に、実は科学小説三篇を書き下ろしていたのである。本篇はその一つである。
右に続いて第三作『三角形の秘密』を書いた。これも勿論、同誌の科学大衆文芸欄に出たものである。三作中、これが一番マシであるように思う。この頃僕は、当時売出した江戸川乱歩氏の探偵小説を非常に愛読していた。作風のいくぶん似かよえるは、全く此の小説の影響である。
さて右の科学大衆文芸はどういう反響があったかというと、「そんな下らない小説にページを削《さ》くのだったら、もう雑誌の購読は止めちまうぞ」とか、「あんな小説欄は廃止して、その代りに受信機の作り方の記事を増《ま》して呉れ」などという投書ばかりであって、僕はまだ大いに頑張《がんば》り、科学文芸をものにしたかったのであるが、他の二人の同人《どうにん》たちがいずれも云いあわせたように後の小説を書いてくれずになって、已《や》むなく涙を嚥《の》んで三ヶ月で科学大衆文芸運動の旗を捲《ま》くことにした。実に残念であった。前にもいったとおり昭和二年のことだった。
『壊《こわ》れたバリコン』は昭和三年五月「無線と実験」に載ったものであるが、これこそは実に僕の科学小説の処女作である。実をいえば、これを書いたのは昭和二年のはじめであって、書いた動機は、その頃「科学画報」に科学小説の懸賞募集があったので、それに応じたというわけであった。そのときは『或る怪電波の秘密』といったような題であったが、これが見事に一等二等を踏みはずし、選外佳作となった。しかし何分にも選外にでも入るとは想像していなかったので、その発表の出たときは誌上にわが名を発見して非常に嬉しかったものである。小説を作る度胸《どきょう》は、このときに出来たといっても過言《かごん》ではない。なおそのうえ僕を楽しませたものは、そこに書かれてあった数行の作品批評であった。詳《
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