ぐらいの大きな穴となった。しかし何が穴を明けているのか更に見えない。
怪奇は、まだ続いた。板塀の穴がもう大きくならぬと思ったら、こんどはまた別の大きな音響が聞えだした。カチカチカチッという硬いものをぶっとばす音だ。その音は、ずっと手近に聞える。敬二はハッとして、後をふりかえった。
ところがどうであろう、彼はいとも恐ろしきことが、すぐ後に始まっているのを知らなかったのだ。敬二の顔は真青《まっさお》になった。そして思わずその場に尻餠《しりもち》をついてしまった。ああ彼は、そこにいかに愕《おどろ》くべき、そして恐るべきものを見たのだろうか。
この深夜の怪奇を生む魔物の正体は何?
崩れる東京ビル
敬二少年は、石を積みかさねてつくられたビルディングが、溶《と》けるように消えてゆくのを見た。――なんという怪奇であろう。
「……」敬二少年は、愕きのあまり、叫び声さえも咽喉《のど》をとおらない。
彼が見た光景を、もっとくわしくいうと、こうである。――
彼は、東京ビルを背にして立っていたのであった。ところがうしろにカチカチカチッと硬いものをはげしく叩くような音がしたので、うしろをふりかえってみると、さあ何ということであろう。東京ビルの入口に立っている太い柱の一本が、下の方からだんだん抉《えぐ》られてくるのであった。柱はみるみる抉られてしまって、メリメリと、大きな音をたててゴトンと下に落ちた。そして中心を失って、スーッと横に傾《かたむ》くと、地響《じひびき》をたてて地上に仆《たお》れ、ポーンと粉々にこわれてしまった。
敬二少年は、、わずかに身をかわしたので、辛《かろ》うじてその柱の下敷きになることから救われた。
カチカチカチッ。――また怪音がする。
「おやッ――」と、音のする方をふりかえった少年の目に、また大変な光景が目にうつった。
それは、東京ビルの玄関が、下の方からズンズン抉られてゆくことであった。まるで砂糖で作った菓子を下の方から何者かが喰べでもしているように見えた。堅牢《けんろう》なコンクリートの壁が、みるみる消えてゆく。そのうちにガラガラと音がして、ぶったおれた。
「ややッ、これは……」寝坊《ねぼう》の宿直《しゅくちょく》が、やっと目をさまして、とびだしてきた。彼はあまりのことに、まだ夢でもみている気で、目をこすっていた。
警官が駈《か》けつけてきた。
通りがかりの酔《よ》っ払《ぱら》いが、酔いもさめきった青い顔をして、次第に崩れゆく東京ビルを呆然《ぼうぜん》と見守っていた。警官にも、何事が起っているのか、ハッキリしなかったが、ただハッキリしているのは見る見るうちに東京ビルが崩れてゆくという奇怪な出来ごとだった。火災報知器が鳴らされた。ものすごい物音に起きてきた野次馬の一人が、気をきかしたつもりで、その釦《ボタン》を押したのだろう。
その騒ぎのうちに、ビルディングはすこしずつ崩れていって、やがて大音響をたてると、月明《げつめい》の夜が、一瞬に真暗になるほど恐ろしい砂煙をあげてその場に崩潰《ほうかい》してしまった。まるで爆撃されたような惨澹《さんたん》たる光景であった。
「一体、これはどうしたというわけだ」と、駈けつけた人々は叫んだ。
「まさか白蟻がセメントを喰べやしまいし、ハテどうも合点のゆかぬことだ」
誰も、この東京ビル崩壊事件の真相を知っている者はなかった。
まるで夢のような、銀座裏の怪奇事件であった。
蟹寺博士の鑑定
東京ビルの崩壊は、崩れおちるまでに相当時間が懸ったので、幸いにも人間には死傷がなかった。警視庁からは、水久保《みずくぼ》捜査係長が主任となって、この原因の知れないビルの崩壊事件を調べることになった。
「どうも分らない。殺人事件の犯人を捜す方がよっぽど楽だ」と、智慧の神様といわれている水久保係長も、あっけなく冑《かぶと》をぬいでしまった。
山ノ内総監も「分らない」という報告を聞いて不興気《ふきょうげ》な顔をしてみせたが、さりとてこれがどうなるものでもなかった。
「水久保君。分らないというだけでは、帝都三百万の市民にたいして、申訳《もうしわけ》にならないぞ。分らないにしても、もっと何か方法がありそうなものじゃないか。こんな風にしてみれば或いは分るかもしれない、といった何か思いつきはないかネ」
「そうでございますネ」と水久保係長はしきりに頭をひねっていたが、急に思いついたという風に手をうって「そうだ。これは一つQ大学の変り者博士といわれている蟹寺《かにでら》先生に鑑定をねがってみてはどうでしょう」
「おお、蟹寺博士か。なるほど、そいつはいい思いつきだ。先生は非常な物識《ものし》りだから、きっとこの不思議をといて下さるだろう。ではすぐ博士に電話をかけて、おいでを願おう」
山ノ内総監も、急に元気づいて、水久保係長の言葉に賛成したのだった。
それから一時間ほどして、いよいよ博士が東京ビルの崩れおちた前にあらわれた。博士は強い近眼鏡《きんがんきょう》をかけて、鼻の下から頤《あご》へかけてモジャモジャ髯《ひげ》を生やしていた。
「なるほど話に聞いたよりひどい光景じゃ」と博士は目をみはりながら、崩れたビルの土塊《どかい》を手にとりあげたりしていたが「これはなかなか強い道具で壊《こわ》したと見える」
「先生、強い道具でとおっしゃっても、それを見ていた人間の話によると、道具はおろか、現場《げんじょう》には犬一匹いなかったそうです」
「何をいうのだ。儂《わし》のいうことに間違いはないのじゃ。たしかに強い道具で、これを壊したにちがいない。やがてそれがハッキリするときが来るにきまっている」
「そうですかねえ。だがどうも変だなア。見ていた連中は、誰も彼も、いいあわしたように、傍《かたわら》には何にも見えないのに、ビルだけがボロボロ壊れていったといっているんだが……」
水久保係長には、博士のいうことがよく嚥《の》みこめなかった。
しばらくすると博士は、腰をのばして、
「この現場は、まあこれくらいで分ったようなものじゃ。では、今盛んに崩れているところを見たいから、案内して下さらんか」
「今崩れているところ?」係長は側をむいて警官隊に、今崩れているところがあるかどうかたずねた。
「さあ、只今そういうところはありません。今のところ、東京ビルだけで崩れるのは停ったようです」蟹寺博士はそれを聞いていたが、やがて首を大きく左右にふっていった。
「この事件は、崩れているところを見ないことには、なぜそんなことが起るか説明できないじゃろう。こんどそういうことがあったら、急いで知らせて下さいよ」博士は、そういいすててスタコラ帰っていった。
新聞記事
敬二少年は、その夜の異変を思いだしてはゾッとするのだった。
――空地の草原を上へおしあげてムクムクと現れた機械水雷のような大怪球! しかも一つならず二つも現れた。それがビビーンビビーンと互いにグルグル廻りながら、やがて煙のように消えてしまった。その怪球には、眼玉のような赤い光の窓がついていたが、それも見えなくなった。二つの大怪球はどこへ行ったのだろう。
――東京ビルがカチカチカチッと崩れはじめたのは、それから間もなくのことだった。
――赤い眼をもった二つの大怪球と、東京ビルの崩壊とは、別々の異変なのであろうか。それともこの二つは同じ異変から出ているのであろうか。
翌日の朝刊新聞には、東京ビルの崩壊事件が三段ぬきの大記事となって、デカデカに書きたてられていた。
「深夜の怪奇! 東京ビルの崩壊! 解けないその原因!」という標題《ひょうだい》があるかと思うと、他の新聞にはまた、「科学的怪談! 蟹寺博士もついに匙《さじ》を投げる。人類科学力の敗北!」
などと、大々的な文字がならべてあった。
敬二少年は、東京ビルの崩れた前でその新聞を一つのこらず読みあさった。しかしその新聞記事のどこにも、例の二つの大怪球のことは出ていなかった。敬二少年は不思議でならなかった。なぜあのことを書かないのだろうか。
「オイ給仕、この騒ぎのなかで、新聞なんか読んでいちゃいけないじゃないか。そんな遑《ひま》があったら、壊れた壁を一つでも取りのけるがいい」
喧《やかま》し屋の支配人|足立《あだち》は、敬二少年を見つけて、名物の雷を一発おとした。
「ははッ――」と、敬二は鼠《ねずみ》のように逃げだしてビルの崩れた土塊《どかい》の上によじあがった。
「敬坊、てへッ、やられたじゃねえか。ふふふふッ」
「なんだ、ドン助か。こんなところにいたのか」
「ふふふふッ。さっきから、ここで働いているんだ。もう大分掘ったよ」そういったのは、同じ東京ビルのコックをしていたドン助こと永田純助《ながたじゅんすけ》という敬二の仲よしだった。彼はおそろしく身体の大きなデブちゃんであった。
「ずいぶんよく働くネ。いつものドン助みたいじゃないや」
「ふン、これは内緒だがナ、この真下《ました》に、おれの作っておいた別製の林檎《りんご》パイがあるんだ。腹が減ったから、そいつを掘り出して喰べようというわけだ。お前も手伝ってくれれば、一切れ呉《く》れてやるよ」
怪しき盗聴者
「泥まみれのパイなんか、僕は好きじゃないんだよ。ねえドン助さん。それよか、もっと重大なことがあるんだ」
「重大? 重大だなんて、心臓の弱いおれを愕《おどろ》かすなよ。重大てえのは何事だ」
「うん、それはネ――」と敬二少年は、昨夜この東京ビルの崩壊したことは新聞に書いてあるが、彼がそのすこし前に見た二つの大怪球のことについては、何も記事が出ていないのはなぜだろうと、昨夜の愕くべき光景をくわしくドン助に話をしたのだった。
「ははア、そういうことなら分ったよ。つまりそのグルグル鬼ごっこをする大怪球――どうも大怪球なんて云いにくい言葉だネ、○○獣《マルマルじゅう》といおうじゃないか。――その○○獣を見たのは、お前一人なんだ。新聞記者も知らないんだ。もちろん何とかいった髯博士《ひげはかせ》も知らないんだ。これはつまり特ダネ記事になるよ。特ダネは売れるんだ。よオし、おれに委《まか》せろよ。○○獣の特ダネを何処《どこ》かの新聞記者に売りつけて、お金儲《かねもう》けをしようや」
「特ダネて、そんなに売れるものかい」
「うん、きっと売って見せるよ」そういっているときだった。
「その特ダネ、ワタクシ、貫います。お金、たくさんあげます」と、突然二人のうしろに声がした。
ハッと敬二とドン助が顔をあげてみると、そこには見慣れない若い西洋人の女が立っていた。背はそれほど高くはないが、鳶色《とびいろ》の縮《ちぢ》れた毛髪をもち、顔は林檎のように赤く、そして男が着るような灰白色《かいはくしょく》のバーバリ・コートを着て頤《あご》を襟《えり》深く隠していた。そして眼には、大きな黒い眼鏡をかけ、いままで崩れた土塊をおこしていたらしく、右手には長い金属製の尖《とんが》り杖《づえ》をもっていた。
「えッ、あなたが買うんですか」
「買います。これだけお金、あげます。ではワタクシ買いましたよ。外《ほか》の人に話すこと、なりません。きっと話すことなりません」
そういって、ドン助の手に素早《すばや》く握《にぎ》らせた紙幣――掌《てのひら》をあけると、十円札が二枚入っていた。
「ほほう、二十円――」
「ドン助さん。これ偽《に》せ札《さつ》じゃないのかい」
ドン助は偽せ札と聞いて、天の方にすかしてみたが、やがてかぶりをふって、その一枚を敬二の懐中にねじこんだ。
怪しき黒眼鏡の外国婦人は何者だろう?
蟹寺博士は、この大秘密をうまく解くことができるだろうか。
それに○○獣は、今どこへ隠れてしまったんだろうか。そも○○獣とは何ものだろう。
また新聞記事
あの不思議な○○獣《マルマルじゅう》は、一体どこへいってしまったんだろう。
それからまた、硬いコンクリートや鉄の柱がはげしい音をたてて消えてゆくビルディングの奇病は、その後どうなっ
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