夫人は函を開きもしなかった。それを彼女は内々恐れていたのである。もしそれが換え玉であるとしれたら如何しよう、如何弁解したらよいだろう? キット[#「キット」に傍点]自分を悪人と思うに相違ない。このような思いがロイゼルの心の中を往来していたのである。
 彼女は今頃貧というものの辛さをしみじみと心に味わった。けれど今となってはいたし方がない。ともすれば沈み勝な心をとりなおして、我れと我身を奮ましながら、恐ろしい負債を是非とも消却しなければならぬと考えた。まず下婢に暇をやって、今までの住居《すまい》を引き払って下層な下町の物置部屋のような一室を借りることにした。
 彼女は初めて労働の苦痛を知り始めた。そして、面倒な台所仕事を不慣れな手つきでやり始めた。ほんのりと桃色をした柔らかな指先で脂ぎった茶碗や皿を洗った。汚れたリンネルのシャツ、テーブル掛け、布巾その他色々なものを洗濯して、それを一々竿にかけて干す。水はというと、勾配の急な坂の下まで汲みに行かなければならない。彼女は坂の途中で幾度となく休んでようやく水をくんでくるのである。彼女はまた長屋の連中と一緒に笊を小脇に抱えて、八百屋や果物屋や肉屋などに出かけて行く。そして、僅かばかりの銭のために色々と押し問答などして、物価の安そうな処をみつけて歩くようになった。
 月の終わりになると証書の書き換えをしたり、いい訳をしたり、それは中々の大役であった。
 夫は夜になると商売人の帳簿の写しを内職にやった。その外一頁五銭程にしか当たらぬ写字を夜の更けるまでやった。
 このような生活がざっと十年程継続した。
 十年の終わりに二人はヤット[#「ヤット」に傍点]元利合わせてすっかりの負債を消却することが出来た。
 ロイゼル夫人は年をとった。見るから面やつれのした世話女房になった――骨が固くなった。手足はあれて皮が剛ばった。縺れた頭をして、胸のあたりをたばけ、真っ赤な手で洗濯の水をザブザブ[#「ザブザブ」に傍点]とあたりに跳ねかしながら、彼女は大声で長屋の連中と話をするようになった。けれど時には夫の留守などに窓側へよりかかって、自分が一生に一番美しかったあの夜の光景《ありさま》を思い浮かべて果敢ない追憶に耽けることもある。
 あの頸飾りさえ失なさなかったら、今頃は如何になっているだろう? ああ誰か解るものか? 世の中というものは奇妙なも
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