釦金《かけがね》が壊れたから直しにやってあるとでも書いて、――え、その内には如何にか工夫のたつまいものでもない」
 彼女の頭は錯乱して、手紙の文句をも考えることも出来ぬ。夫がいうがままに彼女は半ば無意識にその言葉を紙に写した。
 その週の終わりには二人ともまったく絶望して仕舞った。
 彼女に五ツ年上のロイゼルは先口を開いた。
「如何にかしてあの飾りを返さなければならない」
 で、翌日飾りの入っていた箱を持って宝玉《たま》屋に行った。幸い宝玉屋の名が箱に記してあったので――宝玉屋は帳面を色々と繰ってみた。
「その飾りをお売り申したのは私の店ではございません、箱だけは慥かにお誂え申した覚えが御座いますが!」
 こう宝玉屋は無雑作に答えた。
 それから二人はおよそ巴里中にある、ありとあらゆる宝玉屋の店頭《みせさき》に行立《た》った。失なした飾りに類似の品を求めて歩いた。身体は綿の如く疲れきって、胸はいうべからざる苦悶を以てみたされた。
 探し廻った甲斐があって、二人はパライ・ローヤル街のある宝玉屋の店にようやくにかようたダイヤモンドの頸飾りを見つけだした。その価は四万フランであるとのことである。ようやく三万六千フランまで値切った。二人は宝玉屋に低頭平身して事情を打ちあけた。そして、三日間の猶予を乞うた。のみならずもし失なった飾りが二月の末までに見つかったなら三万四千フランで買い戻してもらうという約束までした。
 それから彼は知っている限りの人々を訪ねて、ここから千フラン、あそこから五百フラン、という具合に都合をして歩いた。それでも未だ間に合わぬので高利貸しの処にまでも出かけていった。そして、すべての債主に一々証書を入れた。もう如何することも出来ぬ、恐ろしくって将来のことを考える勇気もない。まったく彼はそのために一生を犠牲にして仕舞ったのである。くるべき暗黒の光景は漸時に彼が前に展かれた。あらゆる肉体の困苦欠乏、精神の煩悶痒苦これらは如何に彼を苦しめたのであろう。彼は約束の期日に宝玉屋に行って三万六千フランを支払って新しい頸飾りを買った。
 ロイゼル夫人はその頸飾りを携へてフオレスチャ夫人の処に返済すべくでかけた。フオレスチャ夫人は冷やかな態度を示しながら、
「もう少し早く返して頂きたかったですよ、これでもチョイチョイ[#「チョイチョイ」に傍点]入用なことがありますからね」
前へ 次へ
全10ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
辻 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング