椛F自分の生きる道はないというのが有名な親鸞上人の信仰の告白で、これも亦今迄に多くの人々によって幾度かくりかえされている。自分も幾度か「歎異抄」という書をくりかえして読んで、親鸞の説に傾倒しているのだが、いかんせん未だに親鸞のような絶大な信仰を獲得することが出来ないから、自分ではなさけないことだと考えているばかりで、どうかしてそのような「安心立命」を得たいものだとひそかに念じてはいるのである。しかし、たとえ阿弥陀如来の光明に接しないでも、自分の「運命」を忍受するだけの修業は出来ていると自分では考えている。敢えて「甘受」しているとはいわない。「甘受」ではなく、不平だらだらでイヤイヤながらかもしれないが、僕はそれを自分以外の人間のセイにはしない。若しくは人間の造っている社会組織といったようなもののセイにもしない。若し尻を持ってゆくなら、寧ろ僕はそれを阿弥陀如来のセイにでもしてやろうと考えている。自分のようなくだらん生物をこしらえている「生命」のバカサかげんを笑ってやりたいと思うのである。全体、なんだって自分のようなくだらんものをこしらえてナンセンスなことばかりさせているのだろう――しかし、
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