サれがイヤなら早くくたばってしまえ! といわれればグウの音も出さずに引きさがるより仕方がないのだ。なにしろサキは正体もなにもわからんバケ物のような「生命」の親玉で、活殺自在でまるで歯も立たなければ、いくらもがいてみたところでなんのてごたえもなく、唯、もうわれわれはその飜弄されるままに動いてるより他に道はないのだ。仕方がないから降参するのでそれを称して自分の運命を忍受するといっているのであるが、なにか別に名案があれば教えてもらいたいものである。
まるまる生きてみたところでたいして長くもない人生なのだから、どうかして、平凡無事に無邪気にくらしたいものだと思う。が、今迄の経験によると中々そう簡単にはゆかない。こっちではそう思っていても向こうからやってくるのだから耐らない。戦争でも始まったらどんなことになるのか、自分だけすましているわけにはいかないだろう。だれもすき好んで気狂い病院などに入りたいと思う者はあるまい。しかし、ふとしたはずみで自分のように気が狂ったなら、それは当然の結果で、ドロボーをすれば刑務所に入れられると同じことである。ボオドレエル流にこの人生を一大瘋癲病院だとすれば、死ぬまではその患者として生きていなければならないわけである。そうして、生きている間はなにかしら絶えず酔ッ払っていなければ忽ちアンニュイのとりこになってしまうのである。凡そこの世の中でなにが[#底本「なにか」を「なにが」に訂正]羨ましいといって、自分の仕事に夢中になって没頭している人間ほど羨ましい者はない。自分には今それがまったくなくなっているからである。単に生存を持続するために惰性でその日を暮らしている程みじめな存在はあるまい。自分のような人間が上海にでもいるとすれば必ず阿片窟の住人になってしまっているに相違ない。嗚呼! なんとかして自分を蠱惑《みわく》するに足る対象がほしいものだ!「廃人」のくせに贅沢をいうな――と叱られるかもしれないが、人間は出来ればどんなにぜいたくをしても一向差支えないものだと私は思っている。しかし、ぜいたくは決して無限ではなくすぐと種切れになってしまうのが人生なのである。人間のぜいたくの極は結局「茶の湯」に還元されてしまうらしい。自分には今のところ場末の酒場でスベタ女給を相手に悪酒に泥酔する能力さえなくなってしまっているのである。ひるがえって飢餓に瀕している農村の人々を
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
辻 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング