ない。スギといえばなんとなくマッスグなようなかんじがする。しかしマツといえば必ずしも曲がったかんじはしない。
▼自分は未だにゼニの勘定がよくわからん。自慢していえば「根拠の原理」(ショーペンハウエルの哲学による)にとらわれることが少ないからだ。しかし、生きてゆくにはかなり不便なものだ。つまりゼニを一向ありがたがらんからオアシがズンズン逃げてゆく。しかしゼニはほしいものだ。
▼自分は近頃恐ろしく気持ちが楽になった。これは年齢の加減かもしれんが、一ツには「如何にして生くべきか?」について考えることをやめたからだ。つまりこの何十年かというもの、僕はそんなことばかり考えてくらして来たのだ。単に「如何にして生くべきか?」ではなく「如何にして己れを忠実に、正しく生きるべきか?」ということについてだ。散々《さんざん》パラ考えぬいた揚句、面倒になったのでダダイズムという奴を発明(しかしこれは本家がいる)したのだが、それがまた一ツの重荷になってしまった。そうして未だに僕はダダイストにされている。なんと命名されてもだが僕には一向気にならん。それからニヒリスト。
▼今年はずいぶん寒かった。特別に貧乏したから
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