風狂私語
辻潤


▼自分は風狂人の一種だ。俳人なら惟然坊のような人間だ。ただ俳句がつくれないばかりだ。嘘のような話だが殆どつくったことがない。俳句ばかりか短歌もつくったことがない。どうもこんなことをいっても人は信用してくれないと思うが、自分ながら不思議だと考えている。
▼西谷がしきりと俳句をつくれといってすすめてくれる。昔、川崎にいた時分佐藤惣之助からもすすめられたことがある。「君が俳句をつくらないのはどうもおかしい」と彼がいうのである。だがやっぱりつくらなかった。今にひとりでにつくれるようになるかも知れない。
▼人間に「耳」の性と「眼」の性とがある。音楽家と画家とがその代表者だ。自分はつまり、「耳」の性だ。ただ音楽家でないばかりである。まれに両方兼備している天才もある。
▼文学者は芸術家としてみる時は一番不純である。音楽や画は表現のミディアムが限られているが、言葉になるとその数が殆ど無限であるから、ちょっと見当がつかぬ。
▼詩人、小説家、戯曲家――しかし、これは一見ハッキリしているようだが一向ハッキリはしていない。「詩」は一番芸術的だ。言葉の芸術家は詩人のみである。ところで、詩を作る人必ずしも「詩人」ではない。小説を書く人必ずしも小説家ではない。形態はしばしば人を欺く。シェークスピアやイプセンは立派な詩人である。エマーソンは哲人であり、詩人である。彼の論文には散文詩として見る方が妥当な場合がしばしばある。
▼人間の独自な「霊魂」が表現されてこそ詩であり、芸術である。
▼俳句は最も短い形式をかりて表現された「詩」である。「詩」以外のなにものでもない。
▼「耳」の性は「主観的」であり、「眼」の性は「客観的」である。すぐれた芸術家は両方を兼備する。ゲーテ。
▼自分はひどく「耳」の方だ。だから人一倍主観的である。一茶の俳句がすきである。つまりわかるのである。蕪村はよくわからないのである。物の形体がハッキリ入ってこない。だから描写することが出来ない。出来るのは心理描写位なものだ。
▼自分の服装はもちろんのこと、他人の服装に対しても全然無頓着だ。樹や草や花の名前がとんとわからん。つまり覚えようとしないのだ。しかし、まさか桜と梅と松と杉とを混同はしない。だが、松をスギといっても、杉をマツと呼んでもどっちでもかまわないと思っている。しかし、人間は物を命名するに決してデタラメでは
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