ない。スギといえばなんとなくマッスグなようなかんじがする。しかしマツといえば必ずしも曲がったかんじはしない。
▼自分は未だにゼニの勘定がよくわからん。自慢していえば「根拠の原理」(ショーペンハウエルの哲学による)にとらわれることが少ないからだ。しかし、生きてゆくにはかなり不便なものだ。つまりゼニを一向ありがたがらんからオアシがズンズン逃げてゆく。しかしゼニはほしいものだ。
▼自分は近頃恐ろしく気持ちが楽になった。これは年齢の加減かもしれんが、一ツには「如何にして生くべきか?」について考えることをやめたからだ。つまりこの何十年かというもの、僕はそんなことばかり考えてくらして来たのだ。単に「如何にして生くべきか?」ではなく「如何にして己れを忠実に、正しく生きるべきか?」ということについてだ。散々《さんざん》パラ考えぬいた揚句、面倒になったのでダダイズムという奴を発明(しかしこれは本家がいる)したのだが、それがまた一ツの重荷になってしまった。そうして未だに僕はダダイストにされている。なんと命名されてもだが僕には一向気にならん。それからニヒリスト。
▼今年はずいぶん寒かった。特別に貧乏したからよけいに寒かったのだろう。しかし、やっと暖かくなってありがたい。冬がなければ春のありがた味はわからん。万事はみんな相対的だ。みんな面白いと思えば面白いし、ツマらんと思えばツマらん。面白いと思えた方が生きているには徳だから、なるべく面白がって生きるにしかず。
▼もはや一切の矛盾や不合理も気にならん。俳句の形式も気にならん。好き勝手放題、ノンノンズイズイと生きることだ。 (「生理」年代不明)
入力者注1:文中に出る人名について以下にまとめる。
(1) 惟然坊
惟然(いぜん)は、美濃国関町の俳匠。本名広瀬源之丞。別号は素牛、梅花仏、湖南人、風羅堂など。元禄2年妻子を捨てて芭蕉門下に入り、京都に移る。元禄7年、『藤の実』を刊行。芭蕉の供をして諸方を行脚し、翁最後の際にも側に侍し看護に当たった。秋挙編の『惟然坊句集』(文化9年刊)がある。(金園社発行「俳句人名辞典」を参照した。)
(2) 西谷
西谷勢之介のこと。1897−1932。詩人。奈良生れ。別号碧落居、更然洞。学歴不明。「福岡日日」の記者など流転の生活を続け、大正12年大阪で「風貌」を主宰、ブレイク、千家元麿の影響をうけた詩が認めら
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